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「きみは知らない」書評 家族それぞれが隠している領域

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月12日
きみは知らない (韓国文学セレクション) 著者:橋本 智保 出版社:新泉社 ジャンル:小説

ISBN: 9784787721211
発売⽇: 2021/04/06
サイズ: 20cm/439p

「きみは知らない」 [著]チョン・イヒョン

 数えで11歳の少女が失踪する。裕福な家庭に育ち、バイオリンの稽古を欠かさず、「瞳の奥には本能的なあきらめ」を宿す、ユジという女の子だ。偶然、家族も家政婦も不在の日曜の午後、韓国の高級住宅地・江南(カンナム)の自宅から姿が消える。誘拐か事故か家出か。物語はサスペンスの趣で始まる。
 ユジの家庭環境はなかなか複雑だ。母は在韓の華僑で台湾大学に学んだ過去がある。年の離れた兄ヘソンと姉ウンソンは、中国との貿易業を営む父サンホの先妻の子だ。失踪の日、母親は実家に行くと言いながら、実は台北へ飛び、ミンという男と密会していた。
 すぐさま公的に捜索願が出されて然(しか)るべきだが、サンホは代わりに探偵を雇う。警察に事情聴取されるわけにはいかない仕事上の後ろ暗い事情があるのだ。ヘソンには日曜の自分の行動が、事件の端緒となったのではとの後悔がある。ウンソンは男性関係の代償かもと苦悩する。つまりそれぞれがユジ失踪の責任を感じ、行動し始めるのだ。
 失踪が、読者にとって謎でなくなるのは、ユジ視点で当日の行動が詳述されるから。ユジはデジタルに弱い母親とは違い、ネットを経由した人間関係も構築していた。つまり本作は、謎解き以外の動力でも物語を推進させる。それは、人には家族間でも侵犯できない隠された領域があり、この一家の場合は何かというものだ。「人間の内部にはきっといくつかの空間がある」。各人に巣くう孤独感と他者理解への諦めが、精緻(せいち)かつスリリングに描かれていく。能力主義社会で生きる疲弊感も透けて見える。
 なかでもミンという男は複雑だ。韓国生まれの台湾籍者として、身分不安定なまま台湾の兵役から逃れ続ける、社会的に弱い立場の中年である。一家の部外者ながら、自分の命の価値を見出(みいだ)す終盤の展開に、この著者らしい、人間存在へのぎりぎりの肯定感が読み取れる。家族の概念を問い直す、真摯(しんし)な一作だ。
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Jeong Yi Hyun 1972年生まれ。韓国の作家。著書に『マイ スウィート ソウル』『優しい暴力の時代』。