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池上冬樹が読む「月夜の森の梟」 深い愛の記憶から生まれた悲しみとおかしさ

え・横山智子

 小池真理子の連載エッセイ「月夜の森の梟」を読みながら、何度となく永田和宏の『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年』(新潮文庫)を思い出した。

 永田和宏と河野裕子は日本を代表する歌人であり、歌壇のみならずおしどり夫婦として有名だったが、河野が病をえてからの、尋常ではない夫婦と家族の葛藤劇(永田の言葉を借りるなら“家のなかが地獄のような様相を呈した時期”)があったことを知った。想像をこえる凄絶さで驚くのだが、でもそれがあるがゆえに、夫婦愛がより強く響いて、とりわけ癌が再発してからの話が胸をうつ。

 具体的にいうと、河野の癌が再発してからは“今度は私の方が参ってしまった”と永田は書く。“河野よりうろたえて”“夜、不意に泣いてしまったこと、寂しさと不安に突き飛ばされるようにして、つぶれるくらいに裕子を抱き寄せて泣いたことが、何度あっただろう”と。そんな夫の泣きくれる姿をみて、河野は「わたししかあなたを包めぬかなしさがわたしを守りてくれぬ四十年かけて」と詠む。“自分だけが、永田を包み、生かすことができる”“この人を包んでいてやらねばと思い続けてきた”四十年という歳月だったという歌である。「かなしさ」はまた「愛しさ」でもあると永田はいう。

 永田和宏と河野裕子の姿は、「月夜の森の梟」で語られる小池真理子と藤田宜永の姿に重なる。小池と藤田の結婚生活は四十年弱であるけれど、「月夜の森の梟」の根底にあるものは、永田和宏と河野裕子の「かなしさ」と「愛しさ」に通底しているのではないか。小池が藤田に寄せる思いは河野の歌に近いと思うのだが、どうだろう。

 連載エッセイでは、いかにも小池真理子らしく、藤田を失った日々を静かに淡々と、でも寂しさや悲しさや辛さを正面から素直に綴っているけれど、そこには読者が誰もが感情移入する挿話がいくつもある。個人的に印象深いのはカップラーメンの話で、かなしさと愛しさのほかにおかしさもしかと掬いあげられている。

 藤田氏の癌が再発し、もう手だてがなくなったことを医師から伝えられ、新幹線に乗って軽井沢の自宅に帰って来た寒い日の晩ことである。昼もろくにたべていなかったからか、ストーブの上でヤカンが湯気をあげているのを見て、小池はふと空腹を覚える。藤田は何も食べたくないというので、ひとりカップラーメンをもってきて湯をそそいだ。

 あと何日生きられるんだろう、といわれても返す言葉もなく、湯気のたつカップラーメンをすすり続けているうちに、「この人はもうじき死ぬんだ、もう助からないんだ、と思うと、気が狂いそう」になり、「箸を置き、鼻水をすすり、手を伸ばして彼の肩や腕をそっと撫で続けた」というのである。

 小池は当時を回想して、「いくらなんでも、あんまりだったな。ふつうはあんな時にカップラーメンなんぞ、食べないだろう。泣きながら、絶望しながら、ずるずる音をたてて麺をすすったりしないだろう」と述べるのだが、そんなことはないだろう。何かしていなければざわめく心を抑えられないからで、ついつい傍(はた)から見れば滑稽なことをしてしまうものだ。滑稽さの裏側には切実な感情がはりついていて、笑いは切なさと紙一重なのである。

 つまり、どんなに悲しい出来事にもおかしみが隠れている。それを引き出してくれるのは、先に逝く者たちの無意識のわざかもしれない。近い将来の避けがたい悲嘆をすこしでも薄めてくれるような、沈黙の眼差しがそこにある。藤田は何もしていないが、でも小池を温かく見守っただろう。歌人夫婦がそうだったように。

 悲しみのなかに滑稽さがある。それを微笑んでもいい。おかしな出来事だと笑みがもれるのは、愛し愛された日々があるからだろう。深い愛の記憶がなければ笑みは生まれないからである。「月夜の森の梟」には、その深い愛の記憶がある。

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  小池真理子さんのエッセー「月夜の森の梟」は2020年6月から翌年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された。2020年1月に死去した夫であり、作家の藤田宜永さんをしのぶとともに、哀しみを通して人間存在の本質を問う内容には大きな反響があった。便箋10枚、20枚といった手紙が届き、メールを含めれば千通近いメッセージが寄せられていた。11月に連載をまとめた単行本『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)が刊行されるのを前に、追悼を文学に高めたと評されたエッセーの一部を紹介するとともに、その魅力を探っていく。
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「月夜の森の梟」は朝日新聞デジタルで全50回を読むことができます。