1. HOME
  2. コラム
  3. 売れてる本
  4. 平野啓一郎『本心』 亡き母を「作り」真実に迫る

平野啓一郎『本心』 亡き母を「作り」真実に迫る

 「――母を作ってほしいんです。」

 『本心』はこのように書き出されている。書き出しからいくつかのことは分かる。

 相手に作ってほしいといっている「母」は発話者自身の母親であること。もうひとつは、聞いている相手が親兄弟ではなく赤の他人であるということだ。この小説が英語に訳される際、「母」をa motherではなく、my motherと訳さなければならない。「わたくしの」がなく打ち付けられるように「母」という日本語一文字で始まる小説は、奇妙な親密さと、一種とらえがたいが確実な切迫感を帯びている。

 現在からそれほど遠くない未来が設定で、語り手であり主人公の石川朔也(さくや)は二九歳。貧困といえる家庭で育ち、自身高校を中退していて、不安定な職業に就いている。一人で育てて一緒に暮らしていた最愛の母を半年前に事故で亡くしている。

 死の前、母は息子に「もう十分生きた」といい、人生の終え方を考え、「自由死」という合法になっている自死の手続きを済ませているという。母の選択を理解しようとする朔也。愛する者の本心に寄り添うことで見出(いだ)される未知の過去、母が残したあらゆる記録、その人生に伴走した友人らの証言や記憶に蘇(よみがえ)る景色をたどりながら、朔也は自らの命と人間としての有りようをめぐる深い洞察の渦に巻き込まれていく。

 母の姿を遠くから思いやるのではない。能(あた)うかぎり本人の容姿や声などに肉薄したバーチャル・フィギュアを制作させ、仮想世界を通じてしか語り得ない母の「真実」をひたむきにたぐり寄せようとする。

 一見単純に見える問いかけだが、青年が生きる拠(よ)り所を失った後に見出した選択肢も、彼自身の「本心」に深く関わることに気づかされる。偶然手に落ちた親ガチャという流行(はや)りのミームとは異なって、朔也は、格差や職業差別などといった社会現実をも視界に収め、丁寧で慎重な「母作り」に身を委ねている。=朝日新聞2021年10月23日掲載

    ◇

 文芸春秋・1980円=3刷3万8千部。5月刊。「コア読者層はロスジェネ世代の女性。自分が高齢者になる20年後の日本の物語が、響いているのではないか」と担当者。