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滝沢カレンの「むかし僕が死んだ家」の一歩先へ 幼い頃の記憶が眠る森

撮影:斎藤卓行

僕と昔付き合っていた彼女はいま、大きな森の中にいる。

少し話を巻き戻そう。
僕の名前はセイタ、42歳。
実に魅力に薄れた42歳と言っても悲しいことに間違えじゃない。

仕事は、用途を問わない配線工事。
25年近く勤務している。

そんな、だし味ひとつしない僕が久しぶりに胸躍る日があった。
それは35歳まで付き合っていた元彼女からの急なお誘いだった。

別れてから7年近く経つが、僕はまだ彼女に思いがある。
だから、僕にとっては目の視力が9歳の時の1.5に戻るより嬉しい話だ。

彼女の名前は、マフミ。
僕より3個年下の彼女は、クレープ屋さんで働いていた。

突然、昨夜マフミからの電話が鳴った。
僕は弾ける気持ちを抑えながら電話にでると、マフミから「明日のおひる12時、話せない?」とお誘いがあった。

当たり前のように仕事真っ最中だが、マフミに会えるなら僕は関係なかった。
「もちろんだよ。じゃあランチをしよう」
そう言って約束し、2人は電話を切った。

そして次の日の12時、待ち合わせの店内で僕はマフミを待っていた。
マフミは12:03に店内にやってくると、僕を見つけるなり、優しく微笑み小さく小さく手を振った。

マフミ、やっぱり素敵だ。
僕の瞳は、店にたっぷりいるはずのお客たちが一瞬にしてマフミだけの景色に変わっていた。

マフミは席につくなり、「久しぶり」の言葉も挟まずに僕に質問をしてきた。
「セイタって、子供の頃の記憶ある?」

急すぎる質問。
そしてなんともピンポイントな質問だ。

僕は笑いながら、「そりゃあ、あるさ」って言う口を準備していたとき気付いた。
何も思い出せない頭の中に。

たしかに、マフミと付き合っているときも僕は一度だって子供の頃の思い出を語ったことはない。
というか子供の頃の写真たちの居場所さえ分からない。

僕はマフミに聞かれた一言で、完全に脳内で自問自答が始まっていた。
17歳の高校生あたりからはなんだか記憶があるのに、それまでの記憶がまるでない。
思い出せないというより、過ごしていた気がしない。

僕は焦る脳内をよそ目にとりあえずマフミに返事をした。
「どうして?」と。

マフミはじっと僕を見つめていた。
「やっぱり。セイタ、子供の頃の記憶ないんだ。わたしと一緒だ」
マフミは僕に聞こえないような小さな声で呟いた。

「え?」
「あ、いや。私ね、17歳からの記憶しかないの。でね、すごくそれが引っかかっていて。聞ける人もいないし、写真もないし……。まぁとにかく細かいことはいいんだけど、行ってみたい場所があるの。そこに行ったら、もしかしたら、何か思い出せるきっかけになるかも」

僕はドキッとした。
17歳からの記憶って、僕と持っている記憶が同じじゃないか。
でも僕は、ただ忘れてるだけの可能性もあるし、なにより今はマフミの話なんだから僕のことは気にするのをやめようと頭で整理していた。

「そうか。もちろん、一緒に付いていくよ! それは、どこにあるの?」
「ずっとずっと北にある森の中……」
「ずっとずっと北? それって名前でいうとどこになるの?」

あまりに雑な説明にやや呆れながら僕は聞いた。

「場所も名前もわからない。けど、ずっとずっとずっと北に進んだらある。連れてってほしい」

マフミはあまりこんな謎発言をしないような人なだけに、妙に僕も気になり始めた。

「わかった。行ってみよう」

僕はマフミのまっすぐな瞳を疑ったことは一度もなかった。
今回もそうだ。

マフミと僕は軽く昼食を済ませると、早速車をとにかく北へと走らせた。

どのくらい走ったのだろう。
すっかり辺りは日が落ち始めていた。

「この森だ」と、マフミはハッとひとつの茂りに茂った森を指差した。
僕は車を停めると、マフミと一緒に森の中に入って行った。
緑が色鉛筆で書いたように濃くって鮮やかな森だった。

「ここに子供の頃の記憶があるの?」
「そう。そうなの。この森の奥にあるはず」

僕はマフミが森の中にぐんぐん進む後ろをしっかりとついて歩いた。
毎日過ごす都会の騒がしさはここには少しも感じない。
まるで飛行機や船に乗って遠くまで来たかのような別世界感が香る。
呼吸はしっかり気付くように、吸いやすい。

「マフミ、ここはなんだか、楽だね。気持ちがいい」
「よかった。こんな真緑な世界、なかなか都会じゃ見つからないわよね」

不思議とマフミと僕の歩く一歩が同じになってくる。
まるで、付き合っていた日のように。

森の中に入って1時間ほど歩いた。
マフミと僕の前には一軒の小さな家が急に現れた。

「ここだ」
マフミは目を丸くさせ、小さく呟いた。

「ここって?」
僕は戸惑い、辺りをキョロキョロしながらマフミに聞いてみた。
マフミは答えることなく、その家に入って行った。

その家に入ると目の前が真っ白になった。
蜘蛛の巣? 霧? なのか、何かとにかく目の前を白い景色が埋めていく。
目がようやく見えるとそこには、マフミがたっていた。

「なんだか眩しかったね」
僕がマフミに言うと、マフミは「ねぇ、来て」と僕の腕を引っ張り、飛ぶように進んで行った。

緑の木々たちがみるみる吹き飛ばされていくように早い。
「はやいマフミ! どこに行くの?」
「どこにだっていけるよ! どこに行きたい?」
「じゃあ、マフミが生まれた町に行きたい」

僕は頭で考える前にそんなセリフが口から出た。
マフミはその声を合図にするかのように、ものすごい勢いでステップを踏んだ。

そして、僕とマフミは空を飛んだ。
「わぁぁぁぁ! 飛んだ!」

だけどなぜだろう。
それ以上、それ以下でもないくらい驚かなかった。
自然かのように。
空から見下ろす街には人がたくさん歩いていて、僕たちに気づいた者は手を振ったりしてくれている。

「セイター!」
下から僕の名前を呼ぶ女の人がいた。
手を振って笑っている。

あれは、僕の母だ。
なぜだろう、こんなになんの引っかかりもなく僕はあの人を母だと確信する。

「母さんー!」と僕も手を振りかえす。
マフミも手を振っていた。

なんで、こんなに居心地がいいのだろう。
マフミが屋根から屋根へとジャンプしながら空を繋いでいく。
すると、可愛らしいレンガ屋根が揃う街並みが現れた。

「降りよう」
マフミがそう言うと石畳に降り立つ。

「わぁ、ここだ!」
マフミは子供に戻ったかのように石畳でできた坂をかけあがっていく。
僕もその後を追った。

坂のてっぺんの左角の家に入っていくマフミ。
僕がその家に着いたとき、そこの庭ではもう、マフミの家族やマフミの友達であろう人々が料理をしたり肉を焼いたりしている。
そしてマフミが楽しそうにご飯をしている。

マフミに近づこうと足を出すが、なぜだろう、僕の一歩は非常に重い。
歩いても歩いてもその家に僕には辿り着けなかった。

そんな僕を横切ってきた1人の男がいた。
僕なんか存在さえ見えてないような素振りでマフミの家に入っていく。
みんなにやたら歓迎されてる男だ。

僕はじっとその男をみていたが、何かがおかしい。
だってその男は僕なんだ。
セイタが僕の目の前で楽しそうにマフミの家族たちと話をしている。

僕はマフミと付き合っているとき、一度だってマフミのご両親に会ったことはないのに、自然と僕はマフミの周りをずっと昔から知ってるかのように理解が早かった。
僕が、目の前でマフミの家族とご飯をしていて、マフミはとてつもなく幸せそうだ。
僕はなんだか、その景色にまた心地よさを感じている。

日はすっかり沈み、辺りは暗くなっていた。
各家からあふれた光が僕の視野の希望になっている。

マフミは家の中で家族と団欒をしているのが、視覚ではない場所から感じる。
そこには僕もいた。
ここにいる僕なのに、目の前のマフミの家で幸せを話している。

だけど、僕は温度すら感じることができる。
もう1人の僕が律儀に感覚を伝えてくれてるかのように。

目を瞑れば、マフミの笑顔が見えて来る。
優しい気持ちになる。
なんだ、マフミはこんな簡単にご両親に会えたんじゃないか。
僕が付き合っていた頃は話も聞いた事なかったのに。

マフミと別れたはずなのに、家では僕とマフミはずっとずっと仲良く話していた。
そこにやってきたのは、僕の母親だった。
動かない僕は目をただ動かす事しかできなかった。

母親がフルーツを山ほど持ってマフミの家に入っていく。
なぜだ?
交流なんてないはずなのに。

僕の母親は玄関でベルを鳴らすと、出てきたマフミのご両親と親しげに話をしている。
さらに奥から僕が出てきた。
「母さん遅いよ」なんて笑いながら話している。

僕はここ。
だけど間違いなく僕として僕は母親と話をしている。

優しい笑顔を振りまく、母。
穏やかで、幸せで、あまりの豊かさに忘れていた感情が僕の喉を刺激し、涙を誘う。

ツーと、涙が一筋流れることを合図に、ぼろぼろと涙の大群が出てきた。
僕、このままここにいたい、と。

首の周りがなんだが湿ってきた。
ハッと首元を見ると、そこはあの森の中だった。
本当に涙があふれて、着てきたTシャツの首元が湿っていた。

森の中で僕はガサッと起きた。
あたりを物凄い速さで見渡すと、隣にマフミが森林浴をしてるみたいに気持ちよさそうに横たわっていた。

絵:岡田千晶

「マフミ、幸せそう」

マフミはこの森で、一面咲いているバーベナみたいに優しい笑顔をしていた。
自然とマフミの頭を撫でていた。
それに気付いたかのように、ゆっくり瞳を開けた。

「起きた? 僕たち寝ちゃっていたね」
「寝ちゃっていたんじゃなくて、眠る森なの」
「え?」
「セイタも夢みたでしょ。幸せじゃなかった?」
「うん。見た。マフミが出てきたよ」
「あれは夢みたいで夢じゃないの。あれはもう一つの私たちの世界」

「ん? ……え?」
「私たちが夢だと思ってるだけで、あれも私たちの世界なんだよね。私の家族、この世界にはいないけど、眠った世界ではいるの。やっと気付いたんだ。ここにくれば、家族に会えるって」
「ここ? なんでここ?」
「家を片付けしていたらこの森で、家の前で写真を撮っていた私たちが出てきたの。 お母さんの字でバーベナの夢って書いてあった。ここはねバーベナと森の力で私たちにもうひとつの世界を教えてくれる」

僕はよくわからなかった。
だけどそれ以上聞くことはなかった。
だってマフミがそう言うんだから、そうに決まっている。

「だから子供の頃の記憶は全部ここにある。幸せな記憶として、残ってる。私とセイタはずっとずっと仲良かったんだよ。小さな頃からね」

僕がさっき感じた安心感。
それはちょっとやそっとの時間経過では得られるはずのない感情だった。
お母さんの温もりを僕はこの森にきて、取り戻した。

この日から、僕はたまにマフミとこの森にくるようになった。

2つの世界で過ごす、僕とマフミの人生。

どちらも、僕。

そんなバーベナの花言葉は、魔力だった。

(編集部より)本当はこんな物語です!

 7年前に別れた恋人・倉橋沙也加から「私」に突然連絡が入る。沙也加の父が生前にこっそりと通っていた長野県にある家に一緒に行って欲しいというのだ。すでに結婚し、娘もいる沙也加との二人での行動を「私」がためらっていると、沙也加は自分には子どものころの記憶が一切ない、記憶を取り戻すために一緒にその家を訪れて欲しいと懇願する。

 別荘地の森の奥にある家を二人で訪れると、そこに人は暮らしておらず、かつて家族が生活していた姿のまま時間が止まったような空間だった。残された日記を読み進めるうちに、かつて起きた出来事が次々に明らかになっていくーー。

 東野圭吾さんが1994年に刊行したミステリー。叙述トリック的な要素もあり、本格推理として楽しむこともできます。