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「夜の道標」書評 「正」と信じたものも変わり得る

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2022年09月03日
夜の道標 著者:芦沢 央 出版社:中央公論新社 ジャンル:小説

ISBN: 9784120055560
発売⽇: 2022/08/09
サイズ: 20cm/351p

「夜の道標」 [著]芦沢央

 ふとしたきっかけで、「昔は」と思うことがある。
 地下鉄の駅のホームで煙草(たばこ)が吸えた。電車の中では、みんな新聞か雑誌や本を読んでいた。女性の結婚適齢期はクリスマスケーキにたとえられていた。昭和の話ではない。ついこの間までは、という感覚だ。
 本書の舞台は平成十年。視点人物のひとりである神奈川県警旭西(あさひにし)署の刑事・平良正太郎は、二年前に管内で発生した学習支援塾経営者殺人事件の被疑者の行方を細々と追っていた。早々に指名手配もされながら、ぷつりと足取りを消していた阿久津弦(げん)はしかし、平良のすぐ近くで生きていた。
 事件直後、阿久津は出身中学の近くで偶然再会した長尾豊子に声をかけられ、ひとり暮らしの実家について行った。同じ中学に通っていた頃、阿久津を強く意識することがあった豊子は、事情を知った上で、父親が遺(のこ)した天窓のある地下室を居室として与え、匿(かくま)ってきたのだ。
 小学六年生の橋本波留は、そんな状況下にある阿久津から施される「餌」で生き延びている。ひとり親である父から虐待され、腹をすかせていた波留は、猫に導かれるように、阿久津と出会った。だが、やがてその現場を目撃した級友の仲村桜介に、あの男は指名手配されている殺人犯じゃないか、と指摘されてしまう。
 恩師とみられている男を阿久津は本当に殺したのか。だとすればどんな理由があったのか。追う刑事の平良にも、匿う豊子にも、阿久津によって生かされている波留にも、口に出せぬ事情があり、目には見えていない真実がある。
 間違いはないと信じてきた指標も、良かれと思ってきた言動も、人と人との関係性も不変ではない。かつて「正」だとされていた物事は、時が過ぎ、時代が変われば「誤」にも「罪」にもなり得る。やがて明らかになる真相は、読者を不安にもさせるだろう。その衝撃を、その揺れを、忘れてはいけないと強く思う。
    ◇
あしざわ・よう 1984年生まれ。2012年『罪の余白』でデビュー。『火のないところに煙は』『カインは言わなかった』など。