1. HOME
  2. 書評
  3. 「遅れた花」書評 死んだ時間を甦らせるマントラ

「遅れた花」書評 死んだ時間を甦らせるマントラ

評者: 横尾忠則 / 朝⽇新聞掲載:2022年11月26日
遅れた花 私の写真ノート 著者:酒井 忠康 出版社:クレヴィス ジャンル:芸術・アート

ISBN: 9784909532879
発売⽇: 2022/09/27
サイズ: 20cm/190p

「遅れた花」 [著]酒井忠康

 本書の化粧扉の裏面に「亡き父母の霊前に捧げる」と記された著者のデディケーションを目にした時、お会いしたこともない著者のご両親の、また、見たこともない肖像写真が頭から離れないことに気づいた。
 さまざまな表現で語られる本書の写真論が、何故(なぜ)か著者の少年性を取り戻そうとする行為のように感じられたのは、ご両親をイメージする僕の脳内視のせいなのかもしれない。
 写真は、カメラマンがシャッターを切った瞬間に時間が止まる。つまり時間の死である。そんな死の瞬間を網膜に刻印しながら、死んだ時間について著者は、硬質な言葉で、時には普段着の言葉で語るが、その言葉によって写真は死から甦(よみがえ)るのである。そして再生された死の断片を語る言葉はマントラでもある。
 つまり写真は切断された時間によって殺された死体である。写真を見ることは時間の死体を見ることである。そして写真は言語化され、その言葉をさらに語る書評は実にむなしい。マントラをあげるラマ僧は言葉を信じないが、彼はビジョン、つまり写真はマントラとして信じる。
 ある時、ある有名なカメラマンが来て、シャッターを切る瞬間、小声で「死ね」と叫んだ。シャッターが降(お)りた瞬間、被写体の僕は死体に変わった。本書で著者は、何人ものカメラマンによって殺害された死体に、まるで少年のような汚れない純粋な裸眼で愛撫(あいぶ)するようにマントラをあげる。写真という死体を、マントラという聖音(オーム)で供養するように読み上げていく。
 ナダールもエイゼンシュテインも、下岡蓮杖(れんじょう)もエドワード・スタイケンも、アルバレス・ブラボも、そしてわが土門拳や濱谷浩、桑原甲子雄も、奈良原一高も、田沼武能や安齊重男らも、すでに墓標となったカメラマンたちも、著者のマントラの前に美しい姿態と共にわれわれを迎えてくれるのである。
    ◇
さかい・ただやす 1941年生まれ。世田谷美術館長、美術批評家。著書に『美術の森の番人たち』など。