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歴史のなかの女性像 ジェンダーの視点、解釈一新 女子美術大学付属高校・中学校教諭 野村育世

源頼朝と北条政子の立像。頼朝を「支えた」だけではない、政子の再評価が進んでいる=静岡県伊豆の国市、同市提供

 2022年、世界経済フォーラムによるジェンダーギャップ指数の政治分野において、日本は146カ国中139位、つまり下から8番目であった。
 だが、さかのぼって古代の倭(わ)・日本では、女性政治家は決して珍しくなく、むしろ普通だった。
 近年の古代史研究では、従来のイメージが次々と塗り替えられている。例えば卑弥呼は巫女(みこ)ではなく政治・軍事・外交を担う王であった。古墳時代前半の大型古墳の被葬者は半数弱が女性である。采女(うねめ)は天皇の侍妾(じしょう)ではなく女性官僚であった。皇后の宮は天皇の内裏の外に別に構えられた。
 7~8世紀の東アジアには、新羅の善徳王・真徳王、日本の推古・皇極=斉明・持統・元明・元正・孝謙=称徳天皇、唐(周)の聖神皇帝(武則天)と、同時期に女性君主が存在した。「推古天皇は女性だから聖徳太子を摂政にした」というのは古い誤解である。

中継ぎを否定

 女帝が皇位継承の中継ぎであったという説は古くからあり、今も論争が続く。義江明子は『女帝の古代王権史』などの著作で、丹念な史料分析の積み上げによって女帝中継ぎ説を否定する。父系制・家父長制が未成立な古代社会に、女帝がいたのは当然のことなのだ。
 男性優位の律令制の導入は、女性の地位を大きく変えた。それまで豪族の男女はともに大王に出仕していたが、律令制では主要官職は男に独占され、貴族の女は氏から一人しか官人になれなくなった。それでも奈良時代には、県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)や和気広虫(わけのひろむし)などの女官たちが活躍した。
 伊集院葉子『古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退』(吉川弘文館・1980円)は、業務、勤務評定、ガラスの天井、結婚、定年などの面から、女官たちをビジネスパーソンとしてリアルに描き出している。
 現在の研究では、その後、平安時代の9世紀半ばごろになると、女性の公的世界からの排除が進むことが明らかにされている。女帝に代わって、藤原氏の娘が后宮・国母(天皇の母)として力を持つようになる。
 服藤早苗藤原彰子』は、紫式部が仕えた彰子(藤原道長娘)の生涯を、特に政治家としての面に光を当てて描いた評伝である。父の意向で入内した12歳の姫は、夫の死後、天皇家の家長として国母として政(まつりごと)を執る。

性別超え敬慕

 彰子と同様に中世の女性は、後家(夫亡き後、家長となった妻)・母となって公式に家・権門を代表し率いた。かつて私は『北条政子 尼将軍の時代』(吉川弘文館・オンデマンド版2530円)を著し、北条政子は鎌倉幕府4代将軍であり、その地位は源頼朝の後家で頼家・実朝の母であることに由来するとした。
 最近、政子の死の前後を記す藤原定家『明月記』断簡を紹介する論文が、谷昇によって発表された。病床の政子を見舞った甥(おい)の北条泰時は、政子が死んだら自分も出家遁世(とんせい)すると言う。政子はこれを制し、天下を鎮守することで恩に報いよと諭す。ここには、性別を超えて政子を政治上の師として敬慕する泰時の姿がある。
 こうした新史料や考古学的知見を広く用いて、今年書き下ろされたフレッシュな一冊が、山本みなみ史伝 北条政子』である。偏見や曲解を廃した正当な史料解釈によって、稀代(きだい)の政治家でかつ慈悲深い人だった政子の姿が浮かび上がってくる。
 ジェンダーは階級と同様に国家社会を分析する視点だが、歴史学では従来ごく一部を除いて用いられてこなかった。歴史の解釈にジェンダーの視点を導入すれば見え方は大きく変わる。いま、日本の歴史はまさに見直されようとしているのである。=朝日新聞2022年11月226日掲載