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「ネット右翼になった父」鈴木大介さんインタビュー 晩年に豹変した亡父、嫌悪感を乗り越え検証した結果は

鈴木大介さん=北原千恵美撮影

昔から朝日新聞と共産党が嫌いだった父

――第1章にも転載していますが、父親が亡くなって2カ月後に「デイリー新潮」に寄稿した記事では、ネット右翼的なコンテンツに傾倒していたことに、激しい怒りを見せていますね。

 憎しみが暴走してますよね(笑)。我ながらそう思います。父親を喪っても気持ちが全く動かなかったのですが、それを自分の中でどう解釈すればいいのか、この時は本当にわからなくて。動かない最たる理由は、父が晩年に右傾化した商業用コンテンツばかりを見ていたことだったので、自分が父の死を悲しめない理由となる、敵を僕は見つけたかったんです。

――敵というのは、父親に影響を及ぼした保守系雑誌や保守系論客だと思っていましたか?

 もちろん核には右傾化コンテンツがありましたが、言論の枠を逸していると感じる雑誌や右派論客そのものではなく、よく言われる「右傾化する日本」とか「右傾化する日本のメディア像」とか、周囲に存在する解像度の低い抽象的なものを、すごく大きな敵のように捉えていました。

――肺腺癌を患い、気力体力が衰えていく闘病生活の中で、「その醜い言説が父を蝕んでいった」とあります。がんを機に、急激に右傾化してしまったのでしょうか?

 デイリー新潮の記事を出したあと、母に父の右傾化についての確認をしたのですが、その際に母が「どうしてもお父さんが、大介が言うようなネット右翼って人たちとは合致しない」と言ったんです。僕が「お父さんって昔からどういう思考だった?」と聞いたら、「お父さんがどこの政党を支持していたかは知らないけれど、朝日新聞と共産党は昔から嫌いだったね」という話になって。

 過去をいろいろ思い返してみると、2000年に石原慎太郎・東京都知事(当時)が「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており」と発言して問題になりましたが、父がその後「三国人と言って何が悪い。我々の世代は普通に使っていた言葉であり、差別的な意味はない」みたいなこと言った記憶が蘇ってきて。そこから僕の混乱が始まりました。

「積極的日和見主義」だった?

――お父さんは1940年生まれだそうですが、60年代の学生運動を経験した世代ですよね。大学生や労働者がこぞって『資本論』を読むなど、左翼的なコンテンツが知的と見られる世代でもあったというか。

 父の検証をするために叔父に協力してもらったのですが、叔父いわく父の学生時代は、「一番頭の良い人と、一番バカな人たちが左傾化していた」ようです。父の兄は激しい無政府主義者だった一方で、父はあまり論争が得意な人ではなかった。そんな父は学生時代、「左翼でなければ人でない」という風潮に反発し、孤立していたように見えると、叔父が語っていました。

――だからといってバリバリの保守運動をしていたわけではないし、中国や韓国文化へのリスペクトもあったとありますよね。そんな父を検証していった結果、「積極的日和見主義」という言葉で表現しています。

 父は保守的な思想が強かったというより、当時の左翼が持つ仲間以外を排除する空気や、「圧倒的な正義」みたいなものに反感を覚えていた。かといって、戦災復興住宅で育った焼け跡世代ですから、積極的に左翼と対峙するスタンスにもまた、迎合できない。日和見とは本来、主流派がどこかによって自身の立場を決めることですが、それは父が最も嫌うスタイルでもあるんです。それを「積極的日和見主義」と表現しました。

 それを知って、父が晩年に視聴していたネット右翼的なコンテンツも、「その思想に染まっている」から摂取していたのではないという視点にたどり着きました。それをいえば僕自身だって、実は陰謀論チェックが大好きなんですよ。あの、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教って知ってます?

――え、なんですか?

 「空飛ぶスパゲッティ・モンスターという宇宙生命体が、地球の起源を作った」というパロディー宗教なんですけど、進化論を批判する原理主義キリスト教へのカウンターなんです。大変悪趣味ですが、ぼくはここの会員バッジを持っているほどハマったし、最近では地球平面論者の言説もよくチェックしていて。面白いからなんですよね。でも、父が右傾化コンテンツを視聴していたのも、もしかしたらその感覚に近かったのかもしれないじゃないですか。

――「なんでこんなもの見てるの?」と聞けないまま、亡くなられたわけですよね。ちなみに私の父は鈴木さん父と同年代ですが、在日コリアンなのに、ネトウヨと見まごう本を読んでいたことが過去に1度あって。理由をただしたら「まずは相手の主張を知らないことには始まらない」と言ったんです。一理あるとは思うけれど、純粋に知りたい気持ちで触れているうちに、取り込まれる人もいるわけで。

 そこが難しいんですよね。僕、2020年にアメリカで議会議事堂襲撃事件が起きた際、行動保守界隈の女性ジャーナリストのYouTubeチャンネルの実況を見ていたんです。理由は、その人が圧倒的に最前線でレポートしていたから。でも彼女のYouTubeチャンネルが父親の履歴にあったら、僕は一発で「取り込まれている」と断定してたとでしょう。触れているのと染まっているの境界線は第三者では判断がつきにくいし、触れているうちに染まってしまうこともある。判断が難しいですよね。

親から差別的な発言を聞かされると…

――民族差別的な言説はもちろんですが、鈴木さんは父親が生活保護受給者を「ナマポ」と貶めたり、シングルマザーをバッシングする発言をしたりしていたことにも、強い怒りがありますよね。

 そこですよ。それが父への怒りと、自分の辛さの中核でした。僕はずっと貧困女性の取材を続けてきたし、姉もシングルマザー。だから「ナマポ」と言ったり母子加算について「自分で選んでシングルマザーになった人になぜ?」みたいなことをぶつくさ言ったり、「これだから女は」というような発言は、本当に耐えがたいものでした。それだけではなく、「僕の本は1冊も読んでないんだな」と思ってしまって。僕を一度も肯定したことがない父でしたが、父の言葉によって、自分のこれまでの職業人生が足元からガラガラ崩れていくような衝撃と無力感を感じました。

 さらに女性蔑視の発言については、僕の中に最も大きな認知のバイアスがありました。ネット上で女性に対して攻撃的なミソジニスト(女性嫌悪主義者)が、同時に民族差別的な発言をするケースを多数見る中で、ネット右翼は即ちミソジニストだという風に、セット化された認知バイアスに僕自身がはまっていたんですね。結果、女性蔑視発言をする父は、やはりネット右翼なんだろうと。でもいろいろ検証していくうちに、自分の父親像は虚像に過ぎなかったことに気づかされたんです。

――その虚像の気づきについて、教えて下さい。

 一般的に言われているネット右翼像と最も大きく乖離していると感じたのは、父が安倍晋三元首相のシンパでは決してなかったことですね。また、過去の言動からしても、中国や韓国の人々や文化には非常に高いシンパシーを感じている父だった。叔父や父の親友などにも聞き込みを深めていく中で、父はその国の人ではなく、その国の政体が嫌いだったのだと、解像度が上がっていきました。

 また本の中で父と年が近い、森喜朗元首相を例に挙げていますが、森氏の失言と父の言動って、すごく似ているんですよ。共通点は、後期高齢者になっていく中で、価値観のブラッシュアップが間に合わなくなっているという点です。ジェンダーギャップをどうとらえるか、家族の在り方、性的マイノリティーの権利、国民が生活の中でどこまで公助でどこまで自助で生きていくのか。そうしたものすべての急速な価値観の変容に、年齢的にもうついていけない。

 生活保護バッシングなどは最も分かりやすいケースで、かの世代は戦後の貧困と高度成長期を経験するなかで「俺だって努力して乗り越えられたのだから、他者も乗り越えられるはずだ」という誤認による自己責任論から、それを口にする。森氏同様に「どうしてそれを言ってはならないのかが分かない」、分からずに、うろたえる。それが父の姿だった。とはいえやっぱり、親から目の前で差別的な発言を聞かされると、飯がまずくなるんですよね。

嫌悪感で心を閉ざさず、検証して対抗する

――父親がネット右翼ではなかったと気づいたことで、鈴木さん自身は、揺れていた思いを手放すことができたと思います。しかし鈴木家という日本人家族の分断は避けられたかもしれませんが、父親が同調してきたヘイトワードのターゲットにされたマイノリティーの傷は、置き去りにされたままではないでしょうか。

 父がそうした言葉を口にしたこと自体は、その言葉によって傷つく人に対しては決して免罪されないと思います。けれど、なぜ口にしたのか、それがいわゆるネット右翼的思想に染まって人間性も失った結果の言動でないということにたどり着き、そして価値観のブラッシュアップもできない老いの中で口にしたことだと腑に落ちたことで「僕の中限定」で、僕は彼の言動を許すことが出来ました。

 でもやっぱり、社会的な免罪はされないんですよね......。後悔すべくは、父の生前に父の等身大の人物像を僕が取り戻していれば、父のヘイトな言動に心を閉ざさず、その時点で父自身の価値観更新を手助けすることができたかもしれない。加害的な言動にストップをかけることができたかもしれないということです。父の生前はスルーすることで必死だったとはいえ、その言動で傷つく属性の人たちにとっては、見過ごした僕は共犯でもあるでしょう。

 でもその一方で、僕の中で父親像が取り戻されていく過程で、残された人生が数年といった親世代に、「その価値観は古いから変われ」「変わらないことは罪だ」と強要するのもちょっと残酷じゃないかという気持ちも、どうしても出てくるんです。

――高齢者から差別的な発言が出た際、批判したら「老人をそんなに追い詰めなくても」と言われたことがあります。この世代だから仕方ないかなって気持ちはあるんですけど、それでも言ってはいけないと思う気持ちもあって。「絶対的な正義はない」と言いますが、差別だけは例外で、何があっても絶対にしてはならないと私は思ってます。

 僕も、父の言動は免罪されない、けれど「自分と同じ小さな人間なのだから、最後ぐらい好きなことを言わせておいても良かったのかな?」という、矛盾した2つの気持ちを抱えるようにもなりました。

――気付いたら「親がウヨになりまして」という家庭は、今やあちこちに存在します。そういう親に悩む人に何か、鈴木さんから言えることはありますか?

 中にはどっぷり染まっているケースもあって、そういう家族を持ってしまった苦しみが、この本で解決するとは思っていません。でも自分自身が何に強い憎しみを抱くのかを検証して洗い出して、その上で相手を見てみたら、もしかしたら何らかの救いを得られるかもしれない。

 多くの人にとって、父親が死ぬ経験って人生で1回しかないことだから、大事な人の姿を見失ったまま別れるのは、もったいないと思うんです。この本を書いた理由のひとつに、許しがたい相手との対話の糸口を回復する、もしくは自分自身に対話のリソースを取り戻すというものがあります。

 まだ相手と対話できる状況なら、まずは自分の中で、なぜ自分はその言動を許しがたいのかについて、とことん対峙して欲しいと思います。自身の思想によって相手を何者かに決めつけていないか? 分断分断と言いますが、分断を作り出しているのは実は自分自身というケースは、案外この世の中で普遍的なことかもしれません。そんなことを見失ったまま大事な人を送り出すようなことは、してほしくないなと思います。

――改めてどんな人に、この本読んで欲しいと思っていますか?

 ネット右翼に限らず、大事に思っていた相手が、突然わからなくなってしまった人ですね。この『ネット右翼になった父』というタイトルですが、結論としてはなっていなかったと思うので、出版当初はモヤモヤしたものがありました。でも本が出てしばらくして、姉と「このタイトルで良かったね」という話になりました。親や友達がネット右翼になったと思っている人が読んでみて、実際はそればかりではない姿に気付くため。無用な分断を回避するため。そのためにも、このタイトルでよかったのかなと。