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ひらりささん「それでも女をやっていく」インタビュー 私の話から、あなたの話を始めてほしい

ひらりささん=篠塚ようこ撮影

オートエスノグラフィーとしてのエッセイ

――今回のエッセイ集は、ひらりささんの個人的な話を通して、どこか自分が見て見ぬふりをしてきたり蓋をしてきたりした女としての人生に向き合わさざるを得なくて、読み進めていくのが正直しんどい部分もありました。本書の「終わりに」で「腹の中に溜まった泥水を吐き出すような気持ちで、この本を書いた」と綴られているのに合わせて、「よい泥水でした」というドンピシャな感想がSNSでもあって、まさにその通りだなと。これを書く作業はもっと大変だったんだろうなと想像がつきます。

 そうですね。ほんと、いつ書いていたんだろうって思うくらい。この本には、2020年から2年ほどワニブックスのWEBマガジンで連載していたエッセイに書き下ろしを加えたものを収録しています。その2年の間に思い悩んだり考えたりしたことを“点”で書いてきたものをギュッと凝縮して一冊の本にしたので、より濃厚な泥水になっているのかも。その間ってコロナ禍もありましたし、ちょうど私は30代を迎えて体調の変化などもあって人生について新たに考え始めたり、イギリスの大学院に留学したりといろいろとあったので。

――しかも、これまではいろんな女性に話を聞いて書くということが多かったと思うのですが、今回は一冊丸ごと自分自身の話ですよね。自分のことを書くって、とてもエネルギーのいる作業です。以前、noteで自分の体験を切り出して書くことに対して抵抗がある、というようなことを書かれていた印象が強かったので、けっこうびっくりしました。

 すごい! よく見てくださって。5年前くらい? noteやブログでもそうなんですけど、当時、個人の辛い体験を書くことに対して「よくぞ書いてくれた!」と賞賛するような、見世物的な感じになっている気がしていました。書くことがある種セラピーになっている場合もあるとは思うのですが、さらけ出して書けば書くほど良しとされる風潮があるなと感じていたんです。でも、それって、ある種、辛いこと合戦みたいになってしまう。それに、インターネットという空間では思っている以上にいろいろな人に届いてしまうので、書き手が本当に伝えたい人たちに届かずに、ただ個人の体験が消費されてしまっているような気がしてあまり好きじゃなかったんですよね。

 でも、書くことで癒されたり新しい発見があったりもするし、それらが伝わるべき人に伝わることには何かしらの楽しみを見出していました。なので、noteの有料マガジンというクローズドな場では自分のことを書いていたんです。ただそのうち、自分の体験を単に個人的な体験として分かち合える人たちだけに伝えるのではなくて、もうちょっと普遍的な意味や構造的な問題などに関わる形で書くことに興味が出てきました。この本は、エッセイという形をしていますけど、自分自身を調査対象にしたオートエスノグラフィーでもあるなと思います。

――オートエスノグラフィー? どういうことですか。

 エスノグラフィーというのは社会学や人類学でよく使われる研究方法で、調査対象である集団や社会の行動様式を観察し記録していく手法です。でも、観察している人の感情やその人の属性なども調査に影響を与えますよね。科学的な研究では主観というのは排除すべきものとされてきたんですが、近年、それを無視するのは権力的な構造を覆い隠すことでもあるという批判が出ています。それに応答して、オートエスノグラフィーという、自己の経験や感情を取り入れる流れがある……というのをまさに大学院でフェミニズムやポストコロニアリズムを専攻する中で教わりました。実は「劇団雌猫」のやってきたオタク女子の自分語りというのも、オートエスノグラフィーの一環だったかもしれない、と思います。今回の本では、自分自身を調査対象として徹底的に観察して書くことをやってみました。

 私自身も含め、私と同世代くらいの日本人女性でフェミニズムの話をし始めた人たちには、『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳)がきっかけになったという人が多いと感じます。あの作品は小説というフィクションだけれども、精神科医のカルテという研究的な形式で物語が進んでいきます。『それでも女をやっていく』でも同じようなことを試みた部分がありますね。読んだ人たちが、「大変なこともあったんですね」と私に対して慰めや労いの思いを抱くのではなく、翻って自分自身はどうだろうと考えるきっかけとなるよう、ケーススタディ的に書いたつもりです。本を読み終えた方たちが自分自身の経験をDMしてくれたり、SNSで書いてくれたりするのを見ると、私の意図がちゃんと伝わっているんだなと思ってうれしくなりました。

――確かに、随所で自分の経験を省みることになりましたね。だから苦しい部分もあったけど、いろんな感情や記憶が蘇って面白い読書体験でした。

 たくさんの読者の方に伝わって、その人自身の経験を引き出すためには、やっぱりディテールが大事なんですよね。なるべく正確に思い出したり人に確認したりして気をつけて書きました。そのおかげか、みなさんがけっこうピンポイントな感想をくれて面白いです。いちばん刺さるポイントが人によって違って、「え、そこ!?」ってなることもあります(笑)。

白黒つけないことでちょっと自由に

――本書では、女友だちや母親など自分以外の女性に対する複雑な感情や彼女たちとの関係についても、ものすごい自己分析でひも解いています。これらを言語化したことによって、何か変化はありましたか。

 あんまり大きくは変わってはないです。でも、この本を書くなかで、何でも白黒つけなくてもいいのかもしれないと思うようになりました。この本は「女」というラベルについてめちゃくちゃ考え抜いて書いて、逆を言えばそれ以外のラベルについては自分につけないように、言い切ってしまわないように書いたんです。例えば、いまの自分としては異性愛者だと思うけど、そうとは言い切らない。いつか白でも黒でもない、グラデーションの位置に立つこともあるかもしれないし、そこに変にこだわらなくてもいいかなと。

 自分のことを本に書いて固定化するとそれに縛られてしまうかもしれないという不安を抱きながら書いたのですが、その瞬間の自分のことはスナップショットとして書くのであって、ここに書いたことにこれからの自分がとらわれなくてもいいと思うようになりました。この本に書いて一旦置いたことで、ちょっと自由になれたような感覚があります。

――自分の中での揺らぎや自己矛盾、グレーな部分も含めて自分なんだと、ある意味、肯定された気がしました。

 本を読んだ方の感想で面白かったものに「いい年して悩んでもいいんだと思いました」というものがありました。今回の本ではあまり出てきませんが、私はけっこう「大人」というラベルにもコンプレックスを抱えて日々暮らしているんですよね。そんな大人じゃない自分に対して「まあ、でもいいかな」って思いながら書いたところもあります。人間ってやっぱり、急に大人になったり女になったりフェミニストになったり、明日からいきなりアップデートされるわけじゃない。とはいえ、ある種、グレーでいられる程度にはマジョリティーであるということなので、より若い世代や困難に直面している当事者に対して責任を果たさないといけないときはあると思います。そうした場面でははっきり意思表示することはすごく大事です。

アイドル好きでもフェミニズムを語られたら

――ロンドンの大学院への留学についても綴られています。何か発見や新たに感じたことはありましたか。

 アジア人女性がロンドンの夜道を歩くのは東京よりももちろん危ないし、大学院の授業でも有色人種に対してパワハラ気味な教授だから避けたほうがいいと言われるなど、ロンドンでは日々の生活の中で人種差別的な面で気をつけないといけないことが発生しました。でも、これってよく考えたら、東京でも実はあるんですよね。男性ばかり集まる場所に一人で行くのはやめたり、夜遅くなったらタクシーを使ったり、物件を借りるときも一階は避けたり。ジェンダーを通じて無意識に制限されている行動はたくさんある。

 何かを避けたり気をつけたりしないといけない状況はすごくストレスで、ちょっと首を絞められているような感じ。ロンドンで人種的な生きづらさを感じたことで、実は東京での女性としての生きづらさはあまりにも内面化されてしまっていて、辛さを感じなくなっているだけなのかもしれないと考えるようになりました。

――大学院ではジェンダーやフェミニズムについて学ばれましたが、フェミニストを名乗る資格がないと感じていると書かれています。

 社会的なニュースやSNS、韓国文学や映画などでフェミニズムの話題が増えてきたことで私もフェミニズムに興味を持つようになったのですが、フェミニズムの話はできても、「正しい」「強い」フェミニストのイメージもあって、自分はフェミニストとは言い切れない迷いがあります。私の周りにも「フェミニズム」や「フェミニスト」という言葉に抵抗感がある人たちは多いんですよね。この本は、そうした人たちが極力ハードルを感じずにフェミニズムについて読めるものとして書いたところもあります。

 以前、友人から、自分は若くて見た目がいい男性アイドルが好きだからフェミニズムの話は厳しいというようなことを言われたことがありました。確かにフェミニズムを徹底しようとしたらルッキズムやエイジズムの点からアイドルを推すことはできなくなってしまうかもしれない。でも、いったんは、自分のことは棚に上げながらも、みんながフェミニズムのことを考えられるほうが、社会的な進捗にはつながるのではと思います。そうやってフェミニズムのことを話したり勉強したりするうちに、むしろ棚に上げた部分、ルッキズムやエイジズムにもいい変化がもたらされるかもしれないですよね。