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安壇美緒さんが「ガラスの仮面」をまごうことなき傑作と断言する理由は

美内すずえ『ガラスの仮面』(白泉社)の最新刊(49巻)。2012年に発売された

 同世代で『ガラスの仮面』が好きな人は1997年のテレビドラマ版から入っていることが多い。私もそうだ。小学生の頃、まだそんな言葉は存在していなかったのだが、「あれエモくない?」みたいなことを翌日に言い合っていたのを覚えている。内容を知らない人でも、「衝撃を受けたシーンで白目になる少女漫画の祖」「おそろしい子……!のアレ」と言われたらピンと来るのではないか。しかし、そんな小ネタだけで本作を語ってはいけない。何故なら、『ガラスの仮面』は結末を読むまで死ねない系のまごうことなき傑作だからだ。

 平凡な少女であった北島マヤが、往年の大女優・月影千草にその天才性を見出され、ライバルである姫川亜弓とともに演劇界の幻の名作「紅天女」を目指していく……というストーリー。演劇を題材とした作品としては並び立つものがないと言い切って良いだろう。中でも傑出しているのは作中で演じられる劇中劇の密度の濃さだ。マヤと亜弓が相反する魅力を発揮した「ふたりの王女」、人間に育て直される狼少女を題材にした「忘れられた荒野」、そして「紅天女」。これらを含めた数多くのオリジナル演目のアイディアは、美内氏が他作品を描くためにストックしていたものらしい。独立した漫画を何本も生み出せたはずのプロットを惜しみなく使ってしまっているわけだから、その大盤振る舞いには恐れ入る。

 私が最も印象深いのは、「紫の影」のエピソードだ。様々な要素が交錯していくシリーズで、“紫のバラの人”の正体にマヤが気づいてしまう、という最大のクライマックスも待ち受けている。大手芸能事務所の敏腕社長として知られている速水真澄は、マヤのほとばしる演劇への情熱に惹かれ、初めて他人に心を寄せる。表向きは非情な冷血漢を装いながらも、“紫のバラの人”として陰ながらマヤを支え続ける道を選んでいた真澄。なぜ真澄がマヤに素性を明かせなくなったのかについては、ぜひ本編を確かめてみてほしい。「身バレ」のキッカケとなったアイテムも詩的な余韻を残すものがあって、何度読み返してもぐっと来る。

 速水真澄が「都合のいい王子様」とはちょっと違うところも物語に深みを与えていると思う。序盤こそ、マヤとは釣り合わないスペックの持ち主として描かれていた真澄だが、家政婦の連れ子として義父や親族から辛く当たられてきた過去が明らかになってくる。境遇は違えども、厳しい環境を必死で生き抜いてきたという点でマヤと真澄は相通ずるものがあるのだ。作中で描かれている「魂のかたわれ」とはそのような結びつきを指すのだろう。

 対照的に、マヤの永遠のライバルである姫川亜弓は生まれついてのお嬢様だ。女優の母と映画監督の父を持ち、幼少期から周囲の期待を一身に浴びて、あらゆる一流のレッスンを受けてきた。将来を嘱望され、類い希なる努力家でもある彼女が初めてぶつかった壁が、天才としてのマヤだ。『ガラスの仮面』の良さは、姫川亜弓の高潔さに詰まっていると私は思う。

 椿姫のチケットを手にするためにマヤは大晦日の海に飛び込み、マヤの初演を観るために速水真澄は台風の中を歩いて行く。ぼんやりと生きていては見つかりにくい、燃え盛るような情熱の存在を『ガラスの仮面』のキャラクターたちはその身をもって教えてくれる。