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家族の最前線 作らない世界、生まれる世界 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年6月〉

絵・黒田潔

 非婚、晩婚、少子化、こうした社会的課題が暗に示しているのは「家族の作られない世界」の到来である。しかし一歩退いて考えてみよう。家族を持つ、それから子供を持つ、これらがある程度叶(かな)うとして、そうした世界では「子供がいるか、いないか」だけが最前線で問われることになる。では、そういう社会で本質的に失われるものはなんだろうか? たぶん、子供の立場に立った時の「何人きょうだいであるか」ではないかとの予感が自分にはある。これを文学的な課題なのだと考え直す時、村上春樹の普遍性あるいは先見性は「一人っ子が語っていた」点にあったと解きうる。そこでは兄弟姉妹が基本的には問われないとの構造があったから。

    

 小池水音の『息』(新潮社)は、その問われない要素にこそ光を当てる。表題作では語り手の女性が喘息(ぜんそく)の発作に苦しみ、と同時に、十年前に二十歳を目前にして自死した弟を夢に見る。夢に見るとは「心に思いつづけている」の意味でもあって、その死んだ弟もまた子供の頃は喘息の発作に苦しんだ。この六歳年下の弟の死は、当然ながら父母にも、弟のかつてのガールフレンドにも深い傷(という言葉では足りないが)を残していて、いま、この時評が「足りない」と語った部分を著者はひじょうに清潔感のある手つきで拾いあげる。作品は浅い呼吸のリズムで進んで、かと思うと一瞬にして深まることもあり、タイトルが“息”であることの正当性を伝える。驚いてしまうのは、この本には表題作とは別の一篇(いっぺん)「わからないままで」が併録されている点で、こちらでは六歳年上だった姉を自分が二十歳の時に亡くした男が登場する。姉はどうやら自死したようだし、姉も弟もともに子供時代には喘息で苦しんだ。この男は章ごとに、その“家族”の関係性に照らして父・夫・弟などと名指される。単純化して語れば、表題作「息」が現世の物語なのだとしたら、その前世に相当する小説が「わからないままで」なのだ、とも解ける。これは圧倒的な試みであって、しかも失敗していないと思う。

 家族というものはもちろん、初めに一組の人間たちが関係の永続を誓う地平から生じる。その片方が失われた時に何が生じるのか、に兄弟姉妹とは別の側面から丁寧に迫ったのがポール・オースター「幻肢」(柴田元幸訳、「MONKEY」三十号)と言える。人生の三分の二近くをともに過ごした伴侶を突然失い、その事故――溺死(できし)である――から十年後にもまだ立ち直っていない夫は、妻が残した自伝的な文章を読み、その文章内にも登場する「二十歳にもならずに死んでしまったボーイフレンド」の人生をも咀嚼(そしゃく)して、そうやって死者たちの記憶の連鎖のその最前線に立つ者になる。「幻肢」は未刊行の長篇の抜粋だが、これだけで十分に読ませ、そうした事実は前述した『息』が二篇の作品を一本として読ませた凄(すご)みに通じる。

    

 「あらゆるところに、ただ列が溢(あふ)れている」のキラーフレーズを繰り出す中村文則の「列」(「群像」七月号)は、家族をいっさい描かない。というのも、ここに登場する人物たち、欲望を自覚する個人たちは「家族を作らない世界」の産物であるからだ。全体は三部構成であり、不敵極まりない第一部に対して、第二部はある種の謎解き、親切さのようにも映る。だがリアルであるはずの第二部でこそ、他の霊長類に比しての人類(現代人)の「家族の不要さ」が抉(えぐ)られる。そして第三部はリアルさも非リアルさも吹き飛ばす。あとに残るのは? 列である。

 読み終えてしばらく動けない……という強烈な体験をしたのはセバスチャン・バリー『終わりのない日々』(木原善彦訳、白水社)だった。十九世紀のアメリカが舞台なのだが、本書には「作られるはずのない家族が作られる世界」があった。語り手はアイルランド移民の男で、父母と妹を失ってから北米大陸に渡り、アメリカ先住民との戦闘に加わり、南北戦争にも参戦する。しかし彼は徐々に「女である自分」を発見する。以前からの最愛の友、すなわち同性の恋人と秘められた結婚をして、先住民の少女がこの二人の“娘”になる。戦争小説としての本書を考える時、文学的にここまで「人がどのように集団で殺し合うか」がびりびりと感受される傑作を自分は他に知らない。が、それ以上に、ここには擬似(ぎじ)家族を超えた“家族”があって、ほとんど涙が出る。=朝日新聞2023年6月30日掲載