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「かたばみ」書評 信じてきた正しさが覆されても

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2023年08月26日
かたばみ 著者:木内 昇 出版社:KADOKAWA ジャンル:小説

ISBN: 9784041122532
発売⽇: 2023/08/04
サイズ: 19cm/556p

「かたばみ」 [著]木内昇

 主人公の山岡悌子は、もしも私なら「こんなはずじゃなかった」と嘆き続けるに違いない人生を歩む。
 戦前に岐阜から単身上京し、指導研修生として日本女子体育専門学校に所属しながらやり投げ選手を続けてきたものの、東京五輪は戦争で中止。昭和十八年、競技人口も大会も減少の一途をたどるうえ、悌子は二十五歳になっていた。
 これ以上の現役続行は難しい。諦めきれぬ思いがありつつも代用教員となり、西東京・小金井の国民学校に赴任。近くの総菜屋二階に下宿し新生活が始まる。
 悌子は、幼い頃から親公認の仲で、早稲田の野球部でエースとして活躍した後、社会人野球へ進んだ神代清一と、いずれは一緒になるつもりでいた。ところが、久しぶりに再会した清一は唐突に悌子の尋常小学校時代の同級生と結婚したと言い出征していく。
 下宿先の家主・朝子は、夫の茂樹を戦争にとられ、姑(しゅうとめ)や実母とも同居している。幼いふたりの子供もいる。更にそこへひ弱な兄の権蔵も転がり込んで来る。終わりの見えない戦争、厳しさを増す食糧難に行動規制。空襲にも遭う。漠然とした不安が、現実的な恐怖へと変わっていく日々。やがて悌子は成り行きで権蔵と結婚し、どちらとも血の繫(つな)がらない幼児を息子として引き取る。
 戦争が終わっても全てが好転するわけではなかった。信じてきた正しさや、物の価値が、あっさり覆されるのであれば、なにを頼りに生きればいいのか。しかし、抱いていた夢を、想(おも)いを、希望を、幾度となく打ち砕かれ、先の見えない暮(くら)しのなかでただ懸命に毎日を生きる悌子たちの姿が、次第に眩(まぶ)しく、少し羨(うらや)ましくも思えてくるのだ。
 どこにでもある、けれど気付かれにくい野草「かたばみ」の名を冠したタイトルが沁(し)みる。
 今を生きる「戦争を知らない子供たち」の子供たち世代にも届いて欲しい傑作長編と断言しよう。
    ◇
きうち・のぼり 1967年生まれ。小説家。『漂砂のうたう』で直木賞。『櫛挽道守』で柴田錬三郎賞。