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魔術的な言葉が織りなす9編の幻想譚 高原英理さん「祝福」インタビュー

高原英理さん=種子貴之撮影

「言葉でどれだけのことができるか」という挑戦

――『祝福』は素晴らしい作品集ですね。幻想的な物語はもちろん、古語を駆使した文章にも圧倒されました。読んでいて連想したのは、折口信夫の神秘的な小説『死者の書』です。

 それはありがたい感想ですね。折口信夫の展開した民俗学や国文学は、本質的には学問というより詩であり幻想だと思います。その言葉に力があるから、つい説得されてしまうけど(笑)。『祝福』は言葉だけでどれだけのことができるのか、という挑戦でもあったので、折口信夫と比較されるのは嬉しいことです。

――本の帯には「『言葉』に呼び出され、結ぼれ合う9つの物語」とあります。あえて「幻想文学」とは謳っていませんが、これは意図的でしょうか。

 幻想文学と謳っても間違いではないし、「高原の書くものだから幻想文学だろう」と思われることも歓迎しています。ただ、今お話しした折口信夫的なアプローチが見過ごされるのを避けるために、帯では謳いませんでした。宮崎駿監督の映画「君たちはどう生きるか」のように、内容について予備知識のない状態で、それでも何かを期待して手に取っていただく、というのが理想的なあり方ではありますね。

――「リスカ」から「帝命定まらず」まで9つの短編を収めています。それぞれ独立した物語ですが、登場人物やエピソードがリンクして、ゆるやかな連作形式になっています。

 この中では「リスカ」が一番古く、2016年に文芸誌「文學界」に発表した作品です。これを書いた時点で、連作にしたいという思いがすでにありました。といっても全体の構成をあらかじめ決めておくのではなくて、前の作品に出てきた言葉や人物を引き継いで、リレーのように繋げていく。先の展開が自分でも分からないわけですが、どうにかなるという確信もありました。不遜な言い方をすると、自分なら何が来ても書けるだろう、と。

――「リスカ」はリストカットをくり返す高校生の物語。「愚かだと思う。でも、身体は、わたしの身体とは、血を流すためにある」と手首にメスを入れ続ける主人公・成瀬美礼の心情が、繊細かつ明晰な筆致で描かれています。

 これの前半だけなら、純文学の新人賞に応募しても違和感がないですね。名前を隠せば受賞できたかもしれない。ただ、夕刻、街でアサミさんという女性と出会うあたりから話が展開して、最終的には超越的なものへの憧れが滲み出てくる。何を書いてもたいていこうなってしまうので、これが私という作家の本性なんでしょう。

――美礼がブログに綴る文章は、やがて熱烈な崇拝者を生んでいく。そのエピソードが、言葉のみで繋がる宗教団体を扱った短編「目醒める少し前の足音」「かけらの生」へと引き継がれていきます。

 こういうことってよくあると思います。SNSで良いことを書いてもほとんど反応がなくて、逆にどうでもよいことを書いたら、何万もの「いいね」がつくとか(笑)。美礼がブログに綴った文章もそこまで深い意味はなかったはずですが、複数の人がありがたがることで、権威を持ってしまう。そもそも言葉を使った表現というのは、どこまで自分のものなのか。他人に教わった言葉を使っている時点で、ゼロから生み出した表現とはいえないのではないか。そういう言語と表現の関係についても、どこか意識していたように思います。

高原英理さん=種子貴之撮影

意味よりも迫真力、禍々しい呪文のように

――続く「正四面体の華」は、「わたしは満ち足りているけれど、不要なものがひとつある。それは自分の心」という言葉に惹きつけられた主人公が、幻の作家の足跡を追うという物語。別々の人から聞いた3つの言葉が、見えない頂点によって結ばれ正四面体になる、というイメージが印象的です。

 そんな頂点はおそらく存在しないんです。しかし否応なくそういうものを思い浮かべてしまう人はいるだろうと。主人公のライターはそういう人物なんですね。9編の中ではこれが一番理念的に、幻想や形而上学を扱った作品だと思います。ただし意識していたのは、超自然的なことはあえて出さないようにしようということです。ぎりぎり現実内で踏みとどまりながら、情報の齟齬によって不思議さを描けるように心がけました。
 後半で少女たちによる秘儀のようなものが描かれますが、あれは書いているうちにふと出てきたものです。自分でも面白かったので、次の「ガール・イン・ザ・ダーク」で、さらに発展させてみました。

――4話目から9話目までは、ホラーとダークファンタジーの専門誌「ナイトランド・クォータリー」連載されたものでした。その冒頭を飾った「精霊の語彙」はなんとも不思議な作品です。死亡した柴島朋比という人物の言葉を主人公は受け継ぎ、ある女性に暗唱させようとする。この行為にどんな意味があるのか、作中では一切明かされません。

 この世に魂など存在しない。人が死んだら言葉だけが残る、というのが「精霊の語彙」の認識です。しかし主人公の行為はまったく意味が分からないですよね(笑)。素性を隠してある人物に接近して、朋比の言葉を暗唱させるだけですから。しかし人間の行いというのは、往々にして理屈に合わないものだとも思います。

――しかもその言葉というのが、「揺らぎ面小揺らぎ面眩み突き」「威き厭於幸織みあらざり」「繰る見幽良しき實珠倭ゆ果」……といった、禍々しい呪文のようなもの。

 このあたりは詩に近い書き方ですね。詩で大切なのはストーリー的な意味ではなくて、個々の言葉がどれだけ迫ってくるかどうか。意味は分からなくても、言葉が迫ってくればいい。「揺らぎ面」のあたりはなんとなく意味が通じますが、「威き厭於幸」なんて自分でも書いていてよく分かりませんでした(笑)。古語を多用した七五調は普通の小説ではなかなか書くことができないので、遠慮なく書くことができて楽しかったです。

高原英理さん=種子貴之撮影

100年後、誰かが再発見してくれれば

――巻末の「帝命定まらず」は、人には聞こえない声をふと耳にした主人公が、「ていめいさだまらず」……という言葉を手がかりに物語を紡ぎ上げていく、という悲痛な幻想小説です。

 客観的に考えるなら、主人公の女性は統合失調症を患っていて、聞こえるはずのない声を聞き、独自の理論をもとに奇行に走ったということになるでしょう。しかし「これが真実だ」と思えるような言葉を聞いてしまったら、人は彼女のように発想し、行動するものじゃないでしょうか。といっても彼女が信じていた超越的な世界が、実際存在するとは限らない。というか存在しないでしょう。あるのは超越的なものを望んでやまない、人間の執念だけなんです。

――悲劇的な最期を遂げる人たちが数多く登場しますが、タイトルは『祝福』。この意図とは。

 登場人物の多くは超越的な世界があることを信じて死んでいきますが、そう振る舞うことは一種の祝福であるんじゃないか。他人からは呪いに見えるかもしれませんが、呪いと祝いは表裏一体ですからね。この言葉の戯れを、言祝ぎながら皆さんに差し出します、というような思いを込めました。
 あとは題名を考えているとき『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を見ていたんですが、オープニングテーマの『祝福』という曲がとても好きで(笑)。その影響もなかったとはいえませんね。実をいえば本の装幀も少しだけアニメのオープニング映像に寄せてもらっているんです。

――そんな裏話があったとは。本作を書き終えての今のお気持ちは。

 やり終えた、という感じはありますね。これまで蓄積してきたものをストレートに出せた気がします。ある年齢を過ぎると、作家の書く物はすべて遺書だと思うのですが、そういう意味でこれもひとつの遺書。いや、この先も延々と新たな何かを書き続けたいと思いますが、としても今はもう、これまで書きたくても書けなかったことをたくさん残しているという段階ではありません。この作品があれば100年後、誰かが再発見してくれて、こんな不思議で、かつ、のっぴきならないことを書いた作家がいたのか、と認めてくれそうな気がしています。

高原英理さん=種子貴之撮影

何かに憧れる心を魂と呼びたい

――2020年に刊行された『観念結晶大系』も、超越的なものとの関係を扱った作品でした。このテーマには一貫してご関心が?

 ずっと昔からというわけではありません。20代あたりまではとにかく澁澤龍彦と中井英夫に憧れていて、彼らが提示する「高級な幻想文学」をある部分では賛成し、ある部分では自分を納得させながら、よきものだと信じ込んでいました。

――たとえば澁澤龍彦がアンソロジー『暗黒のメルヘン』などで推奨した作品ですね。

 そうです。しかし考えてみると高級と低級の差はどこにあるのか。作家の文壇的な地位とか名声、あるいは経済状況や文化資産で優劣をつけるのは、愚かしいことでしかありません。たとえば三島由紀夫は天皇という尊ぶべきものを持っていて、そこに命懸けで向かっていきましたが、自分にはそうした軸になるものがなかった。それがいつの頃からか、グノーシス主義(1世紀ころに生まれたと言われる宗教思想)の考え方に触れて、これは好ましいものだと感じました。グノーシス主義は物質的な世界を全否定して、知識によって真理に至ろうとする。その真摯さに共鳴したんだと思います。超越性について考えるようになったのも、おそらくそのあたりからですね。

――たしかに『観念結晶大系』も『祝福』も、知識や言葉によって見えない世界に触れようとする物語ですね。

 人間に魂などないかもしれない。もし魂と呼ぶべきものがあるとすれば、それは何かに憧れる心のことではないか。高級とみなされている作品であっても、そういう意味での魂がなければ惹かれないし、逆にどんなに低俗なものであっても、命懸けの憧れが描かれていたら価値を認めたい。最近ではそう考えるようになりました。いまだに高級低級という区別はつけていますが、それは澁澤龍彦や中井英夫のそれとは、また違った基準によるものです。

――近年は幻想文学が盛り上がりを見せ、高原さんの存在感もいっそう増しているように感じますが、いかがでしょうか。

 私は幻想文学とはジャンルではなく手法である、という立場ですが、山尾悠子さんや大濱普美子さん、川野芽生さんの活躍のおかげで、去年あたりから一般に幻想文学と呼ばれる作品が注目されていますね。「文學界」でも「12人の“幻想”短篇競作」という特集が組まれて、私も「ラサンドーハ手稿」という作品を寄せています(9月25日発売の『水都眩光 幻想短篇アンソロジー』に収録)。この流れで『祝福』も多くの方に読んでもらえると嬉しいところです。

――では、これから『祝福』を手にする読者に一言お願いします。

 レゴブロックを繋げて奇妙な形を作るように、言葉と存分に戯れながら楽しんで書いた作品です。その個人的な楽しみを、世の中に通じるような形にもすることができました。それだけでなく、戯れと思っている内に引返せないところに来るような面もあります。こういう作品を出してもらえるのは、作家として幸せなことです。自分は今、シリアスな批評・評論の場で言及の対象となることの少ない残念な作家ですが、編集者と読者、それと紹介してくださる方には恵まれていると思います。こうなるだろうという予想を裏切って展開していく連作になっています。裏切られる楽しみを味わってみてください。