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王谷晶さんの読んできた本たち 10代でオタクに目覚め「クィア文学」を読みあさったBL前夜

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

学齢期前に自分で読んでいた

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

王谷:絵本だと思います。ジル・バークレムという作者の『野ばらの村のものがたり』という、ねずみが人間のように服を着て村を作って暮らしている設定の、絵がすごくきれいな絵本があって。そのシリーズのセットが家にありました。たぶん祖父が自分のために買ってくれたんじゃないかと思います。

 親が言うには私は字が読めるようになるのと、喋るようになるのが異常にはやかったらしいです。散文で読んだものでいちばん古い記憶にあるのは『星の王子さま』なんですが、それを学齢期前に読んでいました。

 うちは両親が若い頃、書店をやっていたんです。当時はISBNもないですし、書店を辞めた後は在庫をそのまま持って引っ越したらしいです。なので、家の納戸に小さな書店ほどの在庫がありました。ほとんどが大人向けの本ですけれど。うちの親は共働きで、私はひとりっこだったので本だけ与えられてほっとかれていました。なので、本に囲まれていました。

――ご両親が書店をやっていたのは王谷さんが生まれる前ですか。

王谷:生まれる直前までくらいですね。東京の大塚で店をやっていて、田舎暮らしがしたいといってそこを畳み、まだ日本に余裕のある時代だったので1年2年くらい国内をプラプラして、それから栃木県に定住して、という。

――以前、王谷さんのご両親は木工のデザインをされているとおうかがいしましたが。

王谷:親父は書店を畳んだ後、しばらく職業訓練所みたいなところで木工を修業したんです。今もまだ現役で職人をやっています。職業でいうと木工家になるのかな。家具を作ったり工芸をやったりしています。母親はやるつもりはなかったけれど、親父に来た仕事がキャパオーバーする量だったので、力のない女の人でもできる仕事からやってみないかと言われ、そうしているうちに仕事になっちゃった、みたいな。

 両親は田舎暮らしやロハス系の走りみたいな世代なんです。親の周りにいる大人は、たいていヒッピーあがりみたいなタイプで、マジの吟遊詩人とか、マジのヨガマスターとかばっかり。スーツを着た人なんて、修学旅行でよその場所に行くまでほぼほぼ目にしたことがなかった気がします。

 家に田舎暮らしの本やセルフビルドといった、当時のライフスタイルブックみたいなものがたくさんありました。全篇カラーで写真も綺麗だったので、そういうものも読んでいました。農業本でもハーブの育て方が載っていたりしたし、今でいうと「クウネル」の走りみたいなムックもたくさんありました。母親がレシピ本を集めるのが好きで、相当処分したのに今でも数百冊単位で家にあって、小さい頃はそれも絵本がわりに読んでいました。そうしたら子供向けのレシピ本も買ってくれるようになって。『こどものりょうりえほん』という何年か前に復刊したシリーズを読んで自分でも料理していました。

――セルフビルドの本も家にあったとのことですが、ではご自宅は...。

王谷:セルフビルドです。土地の開墾から地面の基礎から、赤ちゃん抱っこしながら二人でやったそうです。まだ三十代だったので体力が有り余っていたようです。ただ、建てるのにすごく時間がかかって、高校生くらいまでは別の借家に住んでいました。家はいまだに完成していないんですけれど。

――えっ、どんだけ時間かかっているんですか。よっぽど込み入った設計なんでしょうか。

王谷:構造をわかってないと床を踏み外したりするような、忍者屋敷のようなタイプの家です。親父は今70半ばなんで、完成するのかっていう。

――小学校に入ってからの読書生活は。

王谷:そういう家の子だったし他所から来た子だったのでめちゃめちゃ浮いて、学校では速攻でハブられました。なので小学校は半分以上行っていないんです。登校拒否したら親も「別にいいよ」と言って、家でずっと本を読んでいました。今は地方にもフリースクールなどがあるんでしょうけれど、当時は田舎にそういうものがなかったんです。特に勉強をした記憶がないので、いまだに書けない漢字がたくさんあります。

――どんな本を読んでいたんですか。

王谷:いわゆる児童文学的な本ですね。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』は自分の暮らしている環境にちょっと近いものがあってすごく好きでした。うちは親もむちゃくちゃだし家にテレビもないし、他の子供と生活環境が違ったので、ローラの暮らしのほうが親近感がわいたんです。普通の家に暮らしている子供の話を読むと、疎外感がありました。同じ不自由な暮らしなら『大草原の小さな家』みたいな暮らしのほうがよかったな、と思いながら読んでいました(笑)。

 同じ理由で『長くつ下のピッピ』も好きでした。いろいろ手作りしたり、木の上でピクニックをしたり、そういうのがよかった。

――王谷さん一家の暮らしもやはり、手作りというか、アウトドアな感じでしたか。

王谷:生活がアウトドアなんで、娯楽としてのアウトドアがよくわかってないです。高校生の頃、まだ完成していないけれどそろそろ引っ越そうかということになり、水道も通ってない建設途中の家に越したんです。カセットコンロに寝袋で、電気は通っていたのか工場のライトみたいな明かりで、情報手段はラジオで。トイレがまだなくて、庭が広かったので穴を掘ってしていました。で、2、3日に1回、近所の町営の温泉みたいなところに行く。 今思えば、花の女子高校生になんてことをさせてたんだっていう(笑)。小さい頃からそういうことが普通だったので、疑問に思っていませんでした。

――本は与えてくれたんですね。

王谷:お金がないなりに本だけは買ってくれました。特に岩波少年文庫はいろいろ買ってもらいました。『ムギと王さま』、『クローディアの秘密』、お決まりで『はてしない物語』と『ナルニア国ものがたり』。そういったスタンダードなところは読みました。

 他によく読んだのは推理小説ですね。きっかけは仙台にいた祖父がすごく推理小説が好きだったことです。祖父の家の二階はもう全部、本で、もちろん大人の本ばかりだったんですが、その影響を受けました。赤川次郎さんから読み始め、親の本棚にあったホームズ、ディクスン・カー、エラリイ・クイーンを読み...。途中でなぜか江戸川乱歩の怪奇幻想の方面に行ってしまい、そこからずるずると筒井康隆方面にいき...。

 江戸川乱歩は黒い表紙の文庫のシリーズを読みました。筒井康隆は最初に読んだのが、母親の車のダッシュボードにあった『心理学・社怪学』ですね。今ジャケットが変わっていますが、講談社文庫の古い、不気味な表紙のほうでした。それを目ざとく見つけて読んだんですけれど、あれって結構大人の世界じゃないですか。親に見つかって「まだ早い」と言われました。でも一度読んで知ってしまってからにはやめられなくて、親の本棚をあさってどんどん筒井康隆を読みました。小説は怖いものとか、不気味なものに惹かれるようになりました。

 他に、よく憶えているのは角川文庫の『怪奇と幻想』という海外短篇のアンソロジーのシリーズです。たぶん今はもう絶版です。表紙がおどろおどろしくて、その怖さに惹かれました。中身はわりと難しいんですけれど一生懸命読みましたね。私は今も短篇集がすごく好きなんですけれど、これが原点かもしれません。東京創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』という海外短篇のアンソロジーもあって、これもやっぱりおどろおどろしい雰囲気が好きで浸って読んでいました。

 中学校にあがる前くらいの時期に田中芳樹さんの『創竜伝』や『アルスラーン戦記』を読んでからは、日本の国内現代ファンタジーも読むようになりました。栗本薫先生の『グイン・サーガ』シリーズとか菊地秀行さんの『風の名はアムネジア』、『吸血鬼ハンターD』シリーズとか。それは一番影響を受けているかもしれない。

11、12歳でオタクになる

――小学校は半分以上行かなかったそうですが、中学校には通ったのですか。

王谷:卒業できるくらいは一応行きました。全然真面目な生徒ではなく、中学生時代もひたすら本を読んでいました。中学校に入ってから島田荘司さんの『占星術殺人事件』をはじめて読んで、そこから御手洗潔シリーズにすごくはまり、他には竹本健治さんを読み...。

 倉橋由美子さんを読み始めたのもこのあたりかな。これは父親の蔵書でした。夏休みだったかに父の実家に遊びに行ったんですが、昔父が使っていた部屋に若い頃読んだ本がそのまま残っていて。そこに初期の『パルタイ』とか『聖少女』とかがあり、することもないから「読んでいいか」と訊いて読んだら、わからないところも多かったんですけれど、すごくツボに刺さったんです。そこからしばらく古書店や新刊書店をまわって手に入るだけ倉橋由美子さんの本を集めていました。

 それから、高村薫さんがこの時期に話題になっていたので読み始めました。最初は母が『マークスの山』を買って、「面白いよ」と言って回してくれたんです。

 あとは親の本棚にあった系では中島らものエッセイが何冊かあって、それでエッセイの面白さにはじめて触れました。中島らものエッセイはほぼ全部読んでいるんじゃないかな。

 私は11、12歳くらいから本格的にオタクになり始めたんです。今、KADOKAWAにルビー文庫というBL小説のレーベルがあるんですが、当時はBL前夜で、そうした作品もスニーカー文庫から出ていたんですね。それらを読みはじめました。雑誌「JUNE」でも作品を連載していた尾鮭あさみさん、須和雪里さん、野村史子さんも書いていたのでよく読みました。いわゆるJUNE小説にはすごく影響を受けましたね。自分が求めているのはこういうものか、って。それでとにかく男性同士の恋愛の話が読みたくて、でも当時は今ほどBL本もなかったので、一般小説の中にそれっぽい描写がちょっとでもあると耳に挟んだらそれを読む、という感じでした。インターネットもまだなかったし、田舎なのでオタクの先輩もいないので、出版目録を見たりして、完全に勘と気合いで見つけていました(笑)。三島由紀夫からプラトンまで、1行でもそれっぽい描写があったら西村寿行も読みました。なんか、エロに目覚めた中学生と同じ感じでした。

 海外ミステリーでもそういう作品があったんですよね。テリー・ホワイトの『真夜中の相棒』は旧版で出ている時に読み、しばらく刺さっていました。10代で読むと、あれは刺さります。テリー・ホワイトは文春文庫から何冊か出ていたので、全部集めて読みました。

 それと、中学生の時に読んでよく憶えているのが、仁川高丸さんの『微熱狼少女』。

――懐かしい。レズビアンを公言する非常勤講師に惹かれていく女子高校生の話で、当時話題になりました。

王谷:ちょうど自分のセクシュアリティの自覚ができはじめた時期に出会いました。それまで漫画も好きだったんですけれど、少女漫画は全然わからなかったんです。キャラクターの心理がまったく読み取れなくて、少年漫画ばかり読んでいました。『微熱狼少女』を読んで、なぜ自分は少女漫画が読めないのか答えがわかった気がしました。要するに、男の子を好きになる女の子のことが全然わからなかったんですよね。今もわからないんですけれど。「だからだったのか」と回答を得た気持ちでした。

 でも90年代のド田舎だったんで、隠しても地獄、ばれても地獄、みたいな。今振り返ればそれなりに「ひでえな」と思うようなこともありました。

 中学生時代は今でいうクィア文学的なものを探して、やはり橋本治さんの『桃尻娘』や『無花果少年と瓜売小僧』なども読みました。ただ、今でもレズビアン文学って極端に少ないんですよね。探しに探しました。集英社文庫から出ていたローリー・キングの『捜査官ケイト』というシリーズは主人公がレズビアンで、それを祖父の書棚で見つけた時は嬉しかったです。

――高校時代の読書はいかがですか。

王谷:高校もなんとか受かって行きはしましたが、まったく真面目に授業を受けないで図書館で本を借りて帰って家で本を読む学生になってしまって。高校時代に一番乱読した気がするんですけれど、あまりにも端から端まで読み過ぎて憶えていないんです(笑)。

 でも、村上龍さんと山田詠美さんにはまりまくる時期があったのは記憶しています。村上さんは最初、中学生の時に『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで格好いいと思いました。いつか都会に出てやると思っているタイプの田舎者だったので、都会の香りがするものが眩しくて刺激的だったんです。それまで読んだことのなかったタイプの小説でしたし。山田詠美さんは恋愛をテーマにした小説が多くて、しかも男女の恋愛なんですけれど、他の男女の恋愛の小説とは違ってスポンと頭に入ってきて理解できたんです。

――山田詠美さんの恋愛小説なら男女の恋愛でも頭に入ってくる、というのが興味深い。

王谷:こうして挙げてみると、男性作家が多いですよね。ある意味不思議なんですけれど、どうしても男性作家の視点のほうが自分に近いような気がしてしまう。

 いとうせいこうさんも『ノーライフキング』と『ワールズ・エンド・ガーデン』がすごく好きでした。『ノーライフキング』は面白すぎて、なんか気分が変になりそうだった(笑)。ビデオで観ましたが、映画版も良かったんですよね。『ワールズ・エンド・ガーデン』のほうはちょっとBL的な要素もあったりして。

 あと、高校時代は大槻ケンヂさんですね。筋肉少女帯の音楽も好きですけれど、やっぱり小説やエッセイが刺さりました。それと沢木耕太郎さんの『深夜特急』が大好きでした。東海林さだおさんの「まるかじり」シリーズや、椎名誠さんのエッセイも好きでした。エッセイはめちゃめちゃ読みましたね。群ようこさんとか、田辺聖子さんとか。自分の好む作家の小説やエッセイを読んで、だんだん自分がメインストリームの人間じゃないことが明確になっていったように思います。この先、外れていくしかないんだなみたいな自覚がありました。

――ご自身で二次創作など文章を書いたりはされていたのですか。

王谷:小さな頃から自分でお話を作ることはしていたみたいです。落書きも絵ではなく、文字を書く子供でした。オタクになってからは二次創作にしろオリジナルにしろ、BLを書いていました。友達に読ませるくらいはしたと思うんですけれど、だいたい一人で書いていました。同人誌もそんなに出していないんですよ。高校の時に数冊出したくらい。漫画も描きましたが四コマのギャグ漫画でしたね。絵が本当に駄目なので、ギャグしか書けませんでした。どれも本当に、ただ趣味でやるだけでした。

――では、将来作家になろうと思ってはいなかった?

王谷:へんな話、10歳くらいの頃から、いずれ小説家とか作家になりたい、ではなくて、なってしまうんだろうな、みたいな気持ちがありました。将来の夢がいろいろあっても、最終的には小説家になってしまうんだろうな、という感覚です。

 だから賞への投稿もあまりしたことがないんですよ。どうせそんなことをしなくてもなるんだから、みたいな気持ちがありました。完全におかしいですよね。いずれ小説家になるんだからそれまではフラフラしていようと思って本当にフラフラして、30歳過ぎて「やばいな」と思うことになるんですけれど(笑)。

陰惨なものに惹かれる

――さきほど少女漫画が読めずに少年漫画ばかり読んでいたとのことでしたが、具体的にはどんな作品を?

王谷:いちばん好きだったのは高橋留美子先生の『らんま1/2』。描く女の子が本当に可愛かったんです。シャンプーがいちばん好きで、ずっと、別にらんまとくっつかなくてもいいじゃんって思っていました。それまで見てきたいろんなコンテンツの女の子のキャラクターって、男の子のことを気にしたり、片想い状態だったりする時はいいのに、くっついちゃった以降すごくつまらなるなと子供心に感じていたんです。シャンプーがそうなるのは絶対に嫌だ、絶対にくっつかないでくれと、面倒くさいオタクみたいなことを8歳くらいから思っていました。あかねとはくっついてもいいけど、シャンプーはずっと一人でいてくれ、って。

 少年漫画を読んでいるといっても、漫画はあまり買ってもらえなかったので、近所の家の人がゴミに出した「ジャンプ」を持ち帰ったり、ラーメン屋さんでこっそり読んだりしていました。

――漫画では、怪奇とか幻想とか、グロいものは読まなかったのですか。

王谷:ラーメン屋さんで読んだ『キン肉マン』はよく憶えています。あれって結構えぐいんですよね。特に初期の頃のウォーズマン戦なんかは読んでびっくりしたんですけれど、そのグロテスクさにときめいている自分もいました。

――伊藤潤二作品とかは。

王谷:すごく好きでした。丸尾末広さんとか、そういう系はだいたい読んでいます。

 なんか、自分に暴力や陰惨なものへの憧憬や猟奇趣味みたいなものがあることを、ずっと心苦しく思いながら生きている感じです。あくまでもフィクションの中でだけです、と思っているし言っていますけれど、100%そうだって言いきれる保証はどこにあるんだっていう。なので、危ない趣味だなとは思っています。

 漫画といえば、アメコミを読み始めたのも高校生くらいからです。小学館さんが和訳を結構出してて、それが地方の本屋にもあったんです。今は「マーベル」という表記ですが、当時は「マーブル」でしたね。「マーブルクロス」というアメコミ専門誌みたいな雑誌があって、それでアメコミ好きになりました。

 海外文学をちゃんと読みはじめたのも高校くらいから。その時に好きだったのはテネシー・ウィリアムズとブレット・イーストン・エリス。図書館で借りて読みました。

 テネシー・ウィリアムズの『呪い』という、白水社のUブックスから出ている短篇集は、しんどい話ばかりですけれど、生涯ベストテンに入ります。18歳19歳までの短い間にそれなりに抱いてきた自分の疎外感が描かれている気がしたというか。自分のことが書かれていると思ったわけではないんですけれど、同じ辛さを抱えている人が昔のアメリカにいた、みたいな。昔のアメリカにもいたんだったら、今の自分が、それを何かに変えるってこともできるのかな、みたいな気持ちというか。

――ブレット・イーストン・エリスは『アメリカン・サイコ』ですか。

王谷:最初に読んだのは『レス・ザン・ゼロ』です。海なし県の栃木の貧乏人とはまったく違う世界が広がっていたんですよね。ロサンゼルスの超セレブの、ある種スカしたような、都会的なところがすごく好きでした。大量の固有名詞の羅列、あの文章のリズムに浸っているのが心地よかった。その後に『アメリカン・サイコ』を読み、これは年1回くらい読み返しています。読むたびに違うんですよね。本が違うというより、自分のほうが変わっているんだなとわかる。鏡を見るような気分で読み返しています。

――どんなふうに感じ方が変わってきたのでしょうか。

王谷:最初に読んだ時は、贅沢な暮らしを羨ましいなと思ったんですね。すごく貧乏だったんで。もちろんそういう表層だけの話じゃないので、2回3回と読んでいくと、消費というものを皮肉に見ていることとか、男性性とかをめちゃめちゃ高度に皮肉っている本だなとわかってくる。エリス先生のような皮肉な態度って、今の時代一番やりにくいだろうなと思いながら著作を追いかけています。

 高校を出てからは、ほぼ海外文学中心になりました。その頃にはじめてジョー・R・ランズデールを読んで、面白すぎてびっくりして。

――『凍てついた七月』とかの著者ですね。

王谷:ランズデールは著作を集められるだけ集めて読みました。めちゃめちゃ影響を受けたと思うんですけれど翻訳なので、ランズデールというより鎌田三平さんの翻訳文の影響を受けているのかもしれません。

 エルロイを読み始めたのもこの頃です。『ブラック・ダリア』なども好きなんですけれど、最初に読んだのはもっと初期の、『血まみれの月』とか『自殺の丘』とか。『キラー・オン・ザ・ロード』も大好きです。『アメリカン・サイコ』もそうですが、自分は殺人鬼の一人称ものが好きなのかもしれない。『キラー・オン・ロード』なんて本当にもう、見てきたかのように書くなと思っていて。

 この時期は自分もすさんでいたので、ガサガサした本ばかり読んでいました。ブコウスキーとか、クライヴ・バーカーとか。他にはケッチャムの『隣の家の少女』『オンリー・チャイルド』とか、そうした暗くて嫌な話を読んでいました。ただ、ビデオ屋さんでバイトしていて社割で借りられたので、本よりも映画の比重のほうが大きくなっていました。

――どんな映画が好きですか。

王谷:中学生の時に「パルプフィクション」に直撃された世代だったんで、タランティーノが好きで、あとはアメリカン・ニューシネマ。「真夜中のカーボーイ」、「スケアクロウ」、「俺たちに明日はない」、「明日に向かって撃て!」...。特に「真夜中のカーボーイ」は刺さりました。自分もさっさと田舎を出て東京に行くんだと思っていた15歳くらいの時にあれを観て、泣いてベショベショになりました。

 ビデオ屋でバイトしていた時期は、本当に端から観ていました。でもやっぱりアクション、コメディが多かったかな。もう今や古典みたいになった60~80年代のホラー映画も端から観ました。ロメロの「ゾンビ」とか、「悪魔のいけにえ」とか。

 当時はマイナーな作品もVHSでいっぱい出ていて、まだビデオバブル期だったんです。まだ「映画秘宝」の版型が小さかった頃ですね。あれをガイドにしてB級映画を観て、その流れで平山夢明さんの文章に出会いました。たぶん、文章技法ということでいちばんショックを受けたのは、平山さんがデルモンテ平山名義で書いていた映画評です。文章っていうのはこんなことができるんだって感動しました。あれを読んでいた世代で、平山さんの文体模写をやったことがある人は多いと思います。

 その頃はまだブログ前夜で、WEB日記サービスがちょっと始まりかけていたんです。そこに自分も平山さんの影響丸出しの映画評を書いていた記憶があります。

20代は「バカの季節」

――高校卒業後に上京されたんですよね。ビデオ店でアルバイトしていたのも上京されてからですよね。

王谷:一応東京のデザイン系の専門学校に進学したんですけれど、名前を書けば入れるような学校でした。とにかく家から出られればいいと思って入学したので、そのまま授業にも行かなくなって、ひたすらバイトをしていました。ビデオ屋とか寿司屋とかスナックとか...。

――本はどのように探していたのですか。

王谷:お金がなかったので、神田の古本屋さんばっかり行きました。当時巣鴨のあたりに住んでいたんですが、5キロくらい歩けば水道橋なので、歩いて行っていました。映画館も観たい作品があったら頑張って劇場に歩いて行っていたんですけれど。

――片道5キロ!

王谷:その頃からだんだん酒の味をおぼえはじめ、生活が酒に浸食される時期が始まるんです。その影響は18、19歳くらいから30代半ばまで続きました。

 上京はしたんですけれど、4年くらいで1回実家に戻っているんです。酒とか鬱とかいろいろあって、もう駄目になっちゃって、実家で21歳から28歳くらいの間、鬱の闘病をしていた、みたいな状態でした。

 その間、焼酎の「大五郎」の4リットルのペットボトル週1本あけていました。酒と一緒に鬱の処方薬をガバガバ飲んでたんです。自分では「バカの季節」って言っています。とても愚かしい季節でした。それまでは比較的中肉中背だったのですが、ご飯もすごく食べていたので一気に45キロぐらい太りました。やばいなとは思ってたんですよね。まだ20代なのに、自分はこのまま終わるのかって。

 でもその時期の記憶はすごく曖昧です。そんな状態だから本はほとんど読めなかったです。やはり田舎に戻ってきちゃったことがすごくショックで、そこから逃れるためにビデオを借りてずっと香港映画を観ていました。だからその頃の記憶にあるのは地元の町並みじゃなくて、香港の町並みです。1回も香港に行ったことないんですけれど。

 後半はフィクションを摂取するのが駄目になって、映像でもドキュメンタリーみたいなものばかり観るようになりました。抗鬱剤や鎮痛剤を飲むと、ショックに対するアブソーバーになるのか、えげつないものも結構フラットに見られたんですよね。これはチャンスだと思って...って、なにがチャンスだってことですけれど、ネットのグロ動画とか、実録的な殺人ものとか、昭和事件史みたいものも見ました。事故を起こした飛行機のブラックボックスを聞いたりとか。今そうしたものを見続けたら自分も「うっ」となっちゃうと思うんですけれど、あの時期はそれがよかったんです。

――その状態から、どのように抜け出したのでしょう。

王谷:ある時、春日武彦さんと平山夢明さんの『「狂い」の構造』という、お二人の最初の対談本を読んだんです。そのなかに、平山さんがスランプになった時期の話が書かれてあったんです。スランプでどうしようもなくて春日さんのところに行って、「スランプみたいなのを治す薬はないんですか」って言ったら、春日さんは「君みたいな人の部屋はたぶんすごく散らかっているだろうから、まずは掃除をしなさい」みたいなことを言って、薬をくれなかった。それで平山さんが、「まあやってみるか」という感じで少し掃除を始めたら、書けるようになった、というエピソードです。その本には、「面倒くさい」と言いはじめると全部くるっていく、みたいな話もありました。

 以前親がはまっていたので家にスタンダードな自己啓発本がたくさんあって、それを読んでいたことに加えてその平山さんのエピソードを読んでハッとして、実家の台所の床とかを磨き始めたんです。掃除ってやったらやっただけ結果が出ますよね。それで、ちょっとずつ調子が良くなっていきました。気づいたら27歳とかになっていて、なんか人生だいぶ間が空いちゃったけど、まだやり直せるかなと思って。近所に新しくできた大きなスーパーがあって、そこのお惣菜屋さんがバイトを募集していたので、じゃあ働こう、と。1年くらい働いてちょっとお金を溜めて、28歳でまた家を出ました。家出ではないけれど、トランクひとつだけで、ほぼ家出に近いみたいな感じでした。28歳でやることかっていう話ですが、今やらないともうやれないなと思いました。

――平山夢明さんが王谷さんを救ったといえますね。

王谷:そうなんです。一度お会いしたことがあって、ご本人はそういうことされるの嫌だろうからその場ではしなかったけれど、心の中で手を合わせました(笑)。

――そしてまた東京に。

王谷:はい。仕事も何も決めないで上京してしまったので、シェアハウスに入って、携帯であちこち日雇いの登録をして働いていました。

 その頃は二次創作をやってました。とあるコンテンツの二次創作をめちゃめちゃ書いていましたが、作家になるための行動はまったくしていませんでした。

――ネットに映画評みたいなものを書いたりとかは?

王谷:今はもう全部消しちゃいましたけれど、実家でウゴウゴしていた時期もテキストサイトはやっていました。でも、酒量が増えていくとだんだん書くことが支離滅裂になっていくんですよね。当時ネット上で知り合った人がありがたいことに今もまだ繫がりがあるんですが、あの頃私がどんどん支離滅裂になっていく様子を見て、たくさんの人が「ああ、この人駄目なんだな」と思っていたようです。

――それにしても、お酒ってそんなに毎日大量に飲めるものですか。途中で気持ち悪くなったり、二日酔いの苦しみとかはなかったんでしょうか。それに、よく体を壊さなかったな、と。

王谷:身体は結構丈夫みたいです。あんなに無茶をしたのに、いろんなとこの数値もそんなに悪くなくて。酒に関しては、親父は下戸で母親は普通なんですが、祖母がザルを通り越して輪っかみたいな体質で、それを継いでいるみたいです。強いとそのぶん飲んじゃうから、そういうことになってしまう。

――そういえば、前にお酒が強かったからバイト先で助かった、みたいなことをおっしゃっていましたね。

王谷:スナックで働いていた時とか、ライターを始めた時なんかに、変なおっさんが私を酔わせて潰そうとしたことが何回かあったんです。潰し返しました。たまたま肝臓が強かったから助かっただけです。とんでもない話です。

作家デビューの経緯

――アルバイト生活から、作家デビューまでの経緯は。

王谷:自分はいずれ作家になるんだからと思ってフラフラしていたんですが、30歳になった時にさすがにちょっとやばいなと思って。そういう時って、入魂の一作を書いて投稿するのが普通というか、そうすべきなんでしょうけれど、そういう発想が全然なくて。ネット上で知り合った編集系の人に、「小説書くんで仕事ください」って営業をかけたんです。その頃ってちょうど電子書籍の第一次ブームで、電子書籍オンリーのレーベルがちょこちょこ出てきていたんです。それでちょっと書いたりしていました。携帯ゲームが流行り始めて、そのゲームのシナリオライターが人手不足で、運よくその仕事ももらえました。そういうことをやっているうちに、出版とかゲーム業界の知り合いが増えていって、「じゃあうちでもちょっとやってみる?」みたいなことがどんどん増えていって、いつの間にかデビューしていたという...。人の縁で生かさせていただいています。ある意味、飲み会によく顔を出していたから作家になれたタイプです。

――営業をかけただけではそこまで仕事はもらえないのでは。ブログ的なものとか、なにかで王谷さんの文章が彼らの目に留まったのでは?

王谷:「こういうものが書けます」ということで、ポートフォリオ的にそれまでに書いた同人誌とかもぼんぼん出していたんです。元ネタがわからなくても文章力を見てもらえると思って。「エロくないのもエロいのもやります」と言って、普通のおじさんにも18禁エロ同人誌を渡していました(笑)。

――そうした流れの中でノベライズを手掛けたりして、オレンジ文庫からも小説を出されていますよね。『探偵小説には向かない探偵』とか『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』とか。

王谷:キャラクター文芸とかライトノベルといったエンタメのほうでやってきたいと思っていたので、オレンジ文庫で書けるとなってすごく嬉しかったんですね。でも、まあ売れなかった。2冊目を出した後に、これで集英社との縁は終わったなと思いました。でも今、「小説すばる」で連載やらせてもらっているんですけれども。

 でもその時は、これで集英社とは終わったな、この先どうしよう、また派遣をやるか、みたいな気持ちでした。そんな時に、当時ポプラ社にいて今河出書房新社にいる編集者さんから「WEBで何かやりませんか」と声をかけていただいて連載を始めることになりました。人に楽しんでもらおうと思って書いた2冊が売れなかったので、この連載はもう枠を外して好き勝手に書くことにしました。それが単行本になったらはじめて重版がかかって、「あれっ」と思っているうちに「文學界」とかにも書けるようになって、よくわからない場所にいる感じです。

――重版かかった本というのが、『完璧じゃない、あたしたち』ですね。いろんなパターン、いろんなテイストで女の人と女の人の関係が描かれ、登場する一人一人がステレオタイプではないところがよくて。

王谷:女と女の話、くらいしか決めていなかったんですよ。あとはもう自由にやっちゃってくださいということだったので、SFもホラーもなんでもありっていう。

――「WEBで何かやりませんか」と声をかけてくれた編集者は、王谷さんの何を読んでいたのでしょう。

王谷:なんだったかな。noteに3000字くらいの短篇をいくつか載せていたんです。それもやっぱりクィアな話が多かったんです。というか、それ以外の話は意識しないと書けない。たしかそれを見てくださって、WEBの連載も3000字くらいでやりませんかという話でした。作家の方って、ほっとくとどんどん長く書いてしまうと言う方が多いんですが、私は逆で、刈り込んでしまうので長く書くのが大変で短ければ短いほど書けるんです。

――そして、『ババヤガの夜』が大変な評判となります。めっぽうケンカの強い新道依子が、腕を買われて暴力団会長の一人娘を護衛することになる、という話。びっくりの仕掛けもあって本当に見事な作品でした。順調に活動されていますね。

王谷:鬱って、なんか水虫みたいにずっと菌が潜伏している感じで、たまにカクンと落ちたりはするんです。でも病気との付き合いも長いので、そうなったらどうすればいいのか対処法がちょっとわかってきました。まず、酒を飲まないっていう。最近は人と会う時以外は飲まないようにしていて、とてもクリーンな生活をしています。

デビュー後の読書生活

――その後の読書生活は。

王谷:好きなのはチャック・パラニューク先生。今年読み返していたんですが、やっぱり『サバイバー』がいちばん好きですね。ハードだけど青春だなと思えるロマンチックな話で。

 それと映画が話題になったジェイムズ・サリスの『ドライブ』。原作小説は映画とはちょっと違って、もっとドライでソリッドで、短い話なんですけれどすごくよくて。これも年に一回くらい読み返しています。

 ずっと読んでいるのは深町秋生先生とか、黒川博行先生とか。『ババヤガの夜』はその影響下にあるかな。他にも、北方謙三先生とか、花村萬月先生とか。中学生くらいの頃に花村先生の『ブルース』がすごく話題で、こんな小説あるんだなと思って他の作品も読むようになりました。こうして話すと、やっぱり男性作家が多いですね。

――しかも骨太な、ハードボイルド系というか。

王谷:味が濃いものが好きなんです。最近では川上未映子さんの『黄色い家』が骨太でハードボイルドで味が濃くてすっごく良かったです。90年代の東京の風景の書き方も素晴らしかった。世代的にも自分とほぼ近い主人公の話だったのでぐっときました。

 最近はありがたいことにいろんな版元さんがたまに本を送ってくれるので、手があき次第読んでいます。今さらハン・ガンを読み始めて、めちゃくちゃ面白いなと思いました。

 それと、もっと本を読まなきゃいけないなと思って、最近は枕元にレイモンド・カーヴァーの短篇集を置いて寝る前に3、4篇読んでいます。

――なぜカーヴァーというチョイスだったのでしょう。

王谷:もともと短篇は好きですし、寝る前にまるまる一冊長篇を読むのはきついから短篇にしよう、短篇の名手といえばカーヴァーだ、ということで(笑)。今さらはまっています。

 ジョー・ヒルも好きです。スティーヴン・キングの息子ですね。長篇も書かれていますけれど短篇集が好きです。やっぱり自分は短篇のうまい人が好きなのかもしれない。最初はなにかのきっかけで文庫の『20世紀の幽霊たち』を読んだんですよ。あれは本当にいい本でした。

 キングともう一人の息子、オーウェン・キングが共作した『眠れる美女たち』の帯を書かせていただいたんですが、あれも良かったです。あそこの家に生まれて小説家を目指すなんてすごいなと思います。自分だった絶対、全然違う仕事を選んでしまいます(笑)。

――キング自身、精力的に書き続けているんだからすごいですよね。

王谷:こないだ邦訳の新刊『異能機関』が出ていましたが、あんな分厚い本をずっと書いているんですからね。前に、SNSでキング先生がキーボードにいちごジャムをこぼした、みたいな話をしていて、先生もなにか食べながら仕事するんだな、って思いました(笑)。

 キング先生で思い出したんですけれど、小説のハウツー本も好きんなんですよ。キング先生の『小説作法』(※新訳版のタイトルは『書くことについて』)とか、ディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』とか、最近だとル=グウィン先生の『文体の舵をとれ』とか、ああいう作家が書く小説ハウツー本を読むのは、なんというか、マゾヒスティックな快感がある(笑)。「ぜってえこんなのできねえ」っていう劣等感を刺激されると、ちょっとやる気が出るんです。だから、村上春樹さんが毎日必ずジョギングして必ず10枚書くっていう、そういう話が大好きなんですよ。自分は絶対そんなことはできない。

――「あなたもすぐ小説が書ける」みたいな指南書は面白くないわけですね(笑)。

王谷:実際に書くだけなら、それは誰にでもできる楽しいことなので。やっぱりトップクラスの人たちの「普通」、つまり「異常な普通」を見せられるのって、豪華客船を見ているような、あるいは石油王の暮らしを見ているような、変な快感があります(笑)。だからハウツーとして読んでいるのとはちょっと違うかもしれません。書くためというよりは、石油王の御宅訪問みたいな感じ。実際になにかを書くためには、結局読んで書いて、それを続けていくしかないと思うから。

――1日のルーティンは。

王谷:一応午前中には起きるようにしています。1回デスクに座れば気力が切れるまで座っているんですが、1日何も書けない時もあります。ムラがあって、1日50枚くらいの時もあれば、2日間くらいひたすらぼーっとしているだけの時もあります。

――1日50枚って、ゾーンに入っていそう。

王谷:そういう時はさすがに30時間くらい起きてたりしますね。1日10枚とか20枚とかコンスタンスに書ける人に憧れがあります。ただ、ムラはありますが、睡眠時間は確保するようにはしています。

――睡眠大事。本を読むのは寝る前が多いですか。

王谷:そうですね。昼間も書くのに飽きたらなにか読むことはあります。なので、手の届くところに本だけはいっぱいあります。だいたいみなさんそうだと思うんですけれど。

――読書記録はつけていますか。

王谷:全然つけていないです。忘れちゃうので書かなきゃとは思うんですけれど。というのも、エビデンスがあるわけではないのですが、バカの季節を過ごした後、明らかに記憶力ががくっと落ちたんです。なので基本的にスケジュールとかは三か所くらいにメモして、「メメント」みたいに忘れないようにしているんですが。

新作と今後について

――新作『君の六月は凍る』は表題作と、「ベイビー、イッツ・お東京さま」の二篇が収録されています。文体も内容もまったく違って、どちらも読み応えがありました。

王谷:「ベイビー、イッツ・お東京さま」のほうは、「私小説的なものはどうですか」と提案されたんですよね。書いたことがなかったし、面白いといえば面白い経験なので、書いてみてもいいかなと思って。

――そう、私小説的だなと思ったんですよ。バイト先にほんとにあんなおじさんたちがいたんですか。

王谷:だいたい小説に書いていることって自分の経験が滲み出てしまうので。いずれにせよ小説に書いていることのほうが、私の場合はマイルドです。バイト先で一緒だったおじさんたちとかが読みませんようにと思ってます。

――表題作は、「わたし」が「君」に語りかける形で、三十年前の二人の子供時代が語られていく。登場人物の名前はイニシャルで、プロフィールは曖昧です。

王谷:先にタイトルが唐突に浮かんだんです。悪くないタイトルだなと思って、じゃあどういう話だろうと逆算して考えていきました。語りかける感じのタイトルだから、そのままに二人称小説にしようと考えました。二人称小説というとやっぱり倉橋由美子の『暗い旅』で、倉橋作品というと人の名前をイニシャルだけで進めているものがあると思い当たりました。なのでストーリーとは別に、発想的なところで倉橋さんの影響を受けた話だと思います。

 誰でも小説を読む時って、頭の中で無意識的にキャラクターシートを作っていると思うんです。作中の個別のプロフィールが曖昧だった場合、どんなふうに読まれるのかという好奇心もありました。なので、登場人物の性別はどんなふうにも読めるようにしました。どれが正解ということはまったくなく、感じたまま読んでもらえれば。

――わたしと君、さらにそれぞれのきょうだいの性別やセクシャリティは、読者によって受け取り方が違いそうですね。

王谷:読む人の家族関係によるのかもしれませんが、感想を聞くと男女の組み合わせがみんなバラバラなんですよ。本当にバラバラに感じてもらいたかったのでそこは成功したと言えるかもしれません。ただ、自分にはきょうだいがいないので、きょうだい関係を書く時は緊張しました。

――タイトルや冒頭の〈君の六月は凍った〉とは何のことだろうと思いつつ、これはもう、最後に胸にドーンときました。

王谷:タイトルを思いついた時、自分でも「凍る」ってなんだよって思って。そこからこの二人にどういうことがあったのかというのを考えまして。

 タイトルが先に決まるのが、一番やりやすいんです。「これはタイトルに使えるのでは」というのがぽこっと浮かんだらネタ帳に書いて、話はあとから考える。タイトルが決まってるとだいたい話はすぐ浮かびます。

 大変なのが固有名詞。人の名前を考えるのがすごく苦手で七転八倒しています。最近、ChatGTPに考えてもらえばいいじゃないかと思って、会社名とか人の名前を「考えて」って出したら、妙にセンスが90年代の中学生なんですよ(笑)。ヘンに耽美でキラキラした名前ばっかり出てきました。つきあい方が難しいですね。

――タイトルが決まると話が浮かぶなんて、王谷さんはお題を出したらなんでも書けそう。しかも、いろんなジャンルが書けますよね。

王谷:自分でもよくわからなくて。エンタメを書けたらと思うんですけれど、エンタメを意識すればするほど受けなくなる、というのが今までの自分のセオリーだったんです。じゃあ純文学かというと、そもそも純文学ってなんだよ、という。好き勝手にやらせてもらっているのは純文学かもしれません。なにを書いても怒られない。

――王谷さんの本を並べると、エッセイ集の『カラダは私の何なんだ?』も含めて、どれも装幀のテイストが違いますよね。

王谷:装幀は結構口を挟ませてもらっています。好きなデザイナーさんがたくさんいるので、もしも頼める機会があればと思ってリストに入れているんです。本は中身が大事といっても、手に取ってもらえなければしょうがないので、なんだかんだいってカバーは大事だなと思っています。『君の六月は凍る』はデザインも本当に格好よくしていただいて。

――装幀は水戸部功さんですね。

王谷:こういう話なので人物のイラストは使わないほうがいいよねという話になり、だったら水戸部さんにお願いしたいと言いました。テッド・チャンが好きなんですが、テッド・チャンといえばやっぱり水戸部さんの装幀なので、憧れがありました。完全にお任せでお願いしたんですけれど、私、灰色が一番好きな色なので、その灰色の本になってすごく嬉しいです。

――今後の刊行予定としては、さきほどちょっとおしゃった「小説すばる」の連載が次の単行本になるでしょうか。「令和元年生まれ ルリカ50歳」というタイトルからわかるように、近未来が舞台で、中年女性が主人公の話。

王谷:今、それの最終回を書いているところです。本にまとまるのは遅くても来年の春なのかな。それとは別に、男性主人公で、中年の危機みたいな感じの中篇も書いています。今、自分が中年の危機を感じているんですよね。いきなりジムに通いだしたり、タトゥーを入れたりして、自分でも「すげえわかりやすい中年の危機だな」と思ったので、書くことにしたんです(笑)。それもこの先、雑誌に掲載予定です。

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