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斜線堂有紀さん「本の背骨が最後に残る」インタビュー 見てはいけない世界を覗く、残酷で美しいホラー小説集

斜線堂有紀さん=佐藤麻美撮影

「異形コレクション」への憧れを再現

――『本の背骨が最後に残る』はホラー・怪奇幻想系の作品を7編収める短編集です。書き下ろしの1編(「本は背骨が最初に形成る」)を除いて、すべて井上雅彦さん監修の書き下ろしアンソロジー「異形コレクション」に発表されたものですね。

 わたしの中で「異形コレクション」は、読み終わった後、悪夢にうなされる本というイメージ。自分もそんな作品を書きたい、という意識は強くありました。好きな巻を読み返して、以前から憧れていた“異形っぽさ”を自分なりに再現しようと思ったんです。書くからには下手なものは出せない。依頼を受けてしばらくは、重圧でナーバスになっていました(笑)。わたしにとってそのくらい大きな意味をもつアンソロジーなんです。

――「異形コレクション」といえば1998年にスタートした、日本を代表するホラーアンソロジーです。初めての出会いは?

 中学生の時だったと思います。図書館にずらっと並んでいたので、まずは桜庭一樹先生など好きな作家さんの載っている巻から手に取りました。そのうち平山夢明先生の作品が面白いということに気づいたんですね。それで短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』を購入して、あまりの怖さに読んだことを後悔しました。本が手元にあることも恐ろしくて、本棚を見るのもいやという感じでした。あの衝撃は今でも忘れられません。

――『独白するユニバーサル横メルカトル』も「異形コレクション」発の短編集でしたね。想像力の限界に挑み、読者の価値観を揺さぶるような作風は『本の背骨が最後に残る』と共通している気がします。

 そう言っていただけると光栄です。『本の背骨が最後に残る』は平山先生ファンだった中学生だった頃の自分が、同じように衝撃を受けるような本を目指していたんです。

井上雅彦さん監修の「異形コレクション」

好きなものと怖いものを組み合わせた

――最初に執筆されたのは表題作「本の背骨が最後に残る」。〈本を焼くのが最上の娯楽であるように、人を焼くことも至上の愉悦であった〉という冒頭の一文から、異様な世界に引き込まれます。

「異形コレクション」の収録作って文章もかっこいいんですよね。特に井上先生の書かれる序文が、毎回うっとりするような名文で。「異形コレクション」の耽美的な雰囲気を支えているのは、井上先生の存在が大きいと思います。他のアンソロジーと違って「異形コレクション」には“ドレスコード”がある感じなんですよ。それでいつも以上に凝った表現や、洒落た言い回しを使うように心がけました。

――物語の舞台は、紙の本が禁止され、代わりに人が本の役目を務めている不思議な国。旅人はその国で、誰よりも多くの物語を刻んだ盲目の本・十に出会います。

 物語を耳で聞くという行為が好きなんです。子どもの頃は読み聞かせが好きでしたし、大人になった今は、オーディオブックで暇さえあれば朗読を聞いています。一方で、わたしは本が焼かれる世界の話がすごく苦手。フィクションでも紙の本が燃えている場面が出てくると、ぎゅっと胸が痛くなります。好きなものと怖いものを組み合わせた結果、紙の代わりに人が本になる世界、という設定が生まれました。

――同じ題名の本が異なる内容を伝えている場合、〈版重ね〉と呼ばれる公開討論がおこなわれ、勝利した方が正しい物語と認められる。この論戦の模様がスリリングに描かれます。

 もし紙の本が存在しなければ、物語の“正解”が誰にも分からなくなるだろうなと思ったんです。版重ねはその正解を決定する場ですが、物語ですから面白い方が勝つ。いくら筋道が通っていても、面白さで劣る物語は淘汰されていく、という展開にしました。これは実は「異形コレクション」の比喩でもあるんです。「異形コレクション」は第一線で活躍する先生方が、身を削りながら短編を書いている。面白いものは読者の印象に残り、つまらないものは忘れられていく。こんなに恐ろしい舞台はありません。

――版重ねに負けた本は火あぶりにされてしまう。絶叫しながら本が燃えていく衝撃的な光景は、一読忘れがたいものがあります。

 この本は自分の怖いものを詰め込んでいるんですが、火あぶりもかなり苦手なんですよ。小学生の頃、魔女狩りに関するノンフィクションを読んで以来のトラウマで、人が生きながら焼かれていく場面がとにかく怖い。そのくせ気になってつい、人が焼かれる場面や展開のある映画やドラマを鑑賞してしまうんです。怖いから避けたい、でもすごく気になる、という矛盾した感情があって、こういう作品が生まれるのだと思います。

残酷な表現が好きなわたしは意地悪なのか?

――個人的には「ドッペルイェーガー」が好きなんです。VR空間の中で、夜な夜な残虐な狩りにふける女性の物語です。

 これは「異形コレクション」に参加したからこそ生まれた作品です。ふだんわたしの本を読まない後輩が、短いからという理由で「本の背骨が最後に残る」を読んでくれたのですが、その感想が「人が痛めつけられるのが好きだなんて、先輩って意地悪な人ですね」というものだった(笑)。確かに残酷な表現は好きだけど、わたしって意地悪なの? という疑問から「ドッペルイェーガー」のアイデアが浮かびました。

――ちなみにその方には、どう返答したんですか。

 マイナス100の邪悪な内面を抱えている人が10の優しさを発揮したとすると、マイナスをプラスに転じさせるために110の努力をしていることになるじゃないですか。デフォルトで優しい人が10の優しさを見せるのと、マイナス100の人が優しくするのとでは、努力の総量が全然違う。その水面下のがんばりを認めてあげてよ、と言いました。どこまで伝わったか分からないですが(笑)。嗜虐性を持つ「ドッペルイェーガー」の主人公にとって、仮想空間で狩りをすることは、自分をプラス側に保つために必要な行為なんです。

――狩りの相手は仮想空間にいるもう一人の自分。万力や包丁を用いた残虐行為が、鮮烈に描かれています。

 主人公のような嗜虐性が、自分の中にもあるんだと思います。人体が損壊する場面のあるホラー映画は、つい楽しく観てしまいますし(笑)。じゃあ怖くないかといえば、やっぱり怖いんです。万力で体の一部を潰すなんて想像もしたくない。ホラー好きのくせに怖がりという、ややこしい人間なんですね。

斜線堂有紀さんの新刊『本の背骨が最後に残る』(光文社)

自分が怖いものが出発点

――お城での舞踏会を描いた「痛妃婚姻譚」は、残酷童話のような味わいの短編ですね。

 この時の「異形コレクション」のテーマが〈ギフト〉だったんです。楽しげなテーマですし、そろそろハッピーエンドの物語を書きたいと思って。お姫様と贈り物が出てくるおとぎ話のような設定を作りました。「異形コレクション」には〈ダーク・ロマンス〉という巻がありますが、わたしはあのテーマにすごく参加したかったんですよね(笑)。それで自分なりのダーク・ロマンスを書くならこういう感じ、という要素も盛りこんでみました。

――〈痛妃〉は特殊な器具を介して、国中の人々の痛みを引き受ける女性のこと。華やかに着飾り、激痛に耐えながらダンスを続ける〈痛妃〉たち……。すさまじい着想ですね。

 痛みを“与える”という表現がありますよね。本来痛みは個人的なものであるはずなのに、贈り物のような表現があるのが面白いなと思って、〈蜘蛛の糸〉という痛みを転送する装置を思いつきました。わたしも痛いのが嫌いなので、こんな装置があれば助かるんですけど。
〈痛妃〉たちが美しく着飾っているのは、あんなに楽しそうだから痛くても平気なんだ、と人々を安心させるため。人間が冷酷なシステムに組み込まれ、道具のように扱われてしまう話が好きなのだと思います。「痛妃婚姻譚」はこの本でも一、二を争うくらい気に入っています。

――そのほか、人間が動物に生まれ変わるコミューンの秘密を扱った「死して屍知る者無し」、局地的集中豪雨をめぐる哀切な幻想譚「『金魚姫の物語』」、おぞましい転地療法を描く「デウス・エクス・セラピー」。よくこんなことを思いつくな、と感心するような大胆なアイデアが詰まっています。

 わたしは親しい友だちと「もしこうなったらどうする?」という仮定の話をよくするんですけど、短編を書くのはそれに似ているかもしれません。お題を与えられると何かしらネタを思いつくので、そこに複数のアイデアを付け加えて、ひとつの物語にするという感じですね。
 この本はどれも自分が怖いものが出発点で、「死して屍知る者無し」なら人は死後どうなるかという恐怖、「『金魚姫の物語』」なら水に浸かって生きながら皮膚が腐る恐怖、「デウス・エクス・セラピー」は無実の罪で閉じ込められて、外に出してもらえない恐怖を扱っています。

――巻末の書き下ろし「本は背骨が最初に形成る」も含めて、どの作品も残酷さと美しさが共存しているのが大きな特徴。佳嶋(かしま)さんが手がけた装画のイメージにぴったりです。

 高校生くらいの時にゴシック・ロリータにはまって、ロリータファッションを身につけていました。そういう耽美的な世界への憧れが、この本では色濃く出ていると思います。特に「痛妃婚姻譚」あたりはそうです。佳嶋さんの装画は素晴らしいですよね。この絵が気になる人は、きっと見てはいけない世界に惹かれるタイプだと思います。怖々でも覗いてみてほしいですね。

父からホラー映画の英才教育

――斜線堂さんがホラー好きになったきっかけは?

 父が映画好きで、食卓で映画をずっと流していたんです。それもホラー映画が多くて、『チャイルド・プレイ』『インビジブル』『ザ・フライ』などを食事しながら観ていました。子ども心にそれがもういやでいやで……(笑)。家の中にはチャッキーの人形が飾ってありますし、お化け屋敷に住んでいるようなものでした。

――ある意味すごい英才教育ですね。

 今にして思うと恵まれた環境だったんですが、小学校低学年まではつらくてたまらなかったです。そんな家庭なので映画を観ることには寛容で、小学4年くらいから父のDVDコレクションを借りるようになりました。幼い頃は断片的にしか観ていなかったので、あらためてこういう話だったのかと。『ザ・フライ』も一時トラウマでしたが、通して観ると切ない話なんですよね。

――活字のホラーとの出会いは?

 小学生の頃からはやみねかおる先生の大ファンで、生まれて初めて買った講談社ノベルスが『少年名探偵 虹北恭助の冒険』なんです。ところがその本の巻末に、大塚英志先生の『多重人格探偵サイコ』の広告が載っていたんですね。両手両足を切断されて電解質に浮かぶ女、首を切られて植木鉢にされる女──というキャッチが恐ろしげなイラストつきで(笑)。怖くてそのページを切り取ったんですが、妙に気になって図書館で借りてしまった。そこから猟奇犯罪ものに少しずつ耐性ができて、「異形コレクション」に流れていったという感じです。
 海外文学ではスティーヴン・キング、ジョイス・キャロル・オーツ、最近だとアルゼンチン作家のマリアーナ・エンリケスが好きです。エンリケスは怖いと感じるポイントが、わたしと近い気がするんです。ほかにも色々読みますが、恐怖を共有できるような作家に惹かれますね。

――『本の背骨が最後に残る』について斜線堂さんは、「私に作家性というものが存在するならばそれはこの一冊にあります」とコメントされていました。それだけ特別な一冊ということですね。

 そうですね。自分の好きなもの、書きたいものがかなり色濃く出ているように思います。無理なく楽しんで書けましたし、自分の核にあるのはこういう世界なんでしょう。これからも夢見が悪くなるような小説を書いていきたいですし、井上雅彦先生にはぜひまた「異形コレクション」に呼んでください、とこの場を借りてアピールしておきます(笑)。中学生だったわたしが平山先生の小説に衝撃を受けたように、この本をきっかけに新しい扉を開いてくれる読者が生まれることを祈っています。