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暮らしの記憶たち 澤田瞳子

 秋を迎えて嬉(うれ)しいことは数多(あまた)ある。とりわけ心躍るのは、料理がしやすいことだ。私は食いしん坊で、休日はほぼ本を読むか台所に立っているかのどちらかだが、酷暑の京都で長時間煮炊きをする根性はさすがにない。夏、いかに火を使わず食事を作るかに傾注していた分、秋冬は大好きな煮込み料理にいそしむ。

 我が家で活躍中の鍋は、三種類。下茹(したゆ)でやちょっとした料理に活躍する片口鍋と、豆や骨付き肉を煮る圧力鍋、そして煮込みに実力を発揮するホーローの大鍋だ。ホーロー鍋は二十年近く前、友人たちが送ってくれた品で、鮮やかな朱色が台所で目立つ。長年の使用でホーローが一部剥げ、磨いても磨いても胴は油汚れに曇っているが、それもいい風合いじゃないかと悦に入っている。

 二年前、親しい編集者さんが「欲しいものはないですか?」と聞いてくださる折があった。あれこれ考えて思いついたのは、ホーロー鍋に乗せて使うステンレスの蒸し器。おかげで以来、我が家の料理の幅はまたぐんと広がった。

 顧みれば、圧力鍋は自分で容量やメーカーを比較して買ったが、最終決定には友人が関わってくれた。今の圧力鍋より倍近く容量のあるサイズを買おうとしたわたしを、「何人暮らしするつもり!?」とあわてて止めてくれたのだ。片口鍋は実家に余っていたのを持ち出したもので、正直、左利きのわたしには注ぎ口の向きが反対で使いづらい。それがかえって自分で買ったわけではないとの事実を忘れさせず、使うたびに「よろしくね」との気分になる。

 鍋に限らず、我々の生活を取り巻く品々はすべて、それを用いるに至った経緯がある。出先で雨に降られて仕方なく買った傘、旅行先で一目惚(ひとめぼ)れしたカバン。普段忘れっぱなしの日々の記憶が、品物の形となって今の生活を築く。そんな中で大好きな料理に関わる鍋が、わたしを取り巻く多くの人の記憶と不可分であることが、とてもありがたく、そして嬉しい。=朝日新聞2023年10月25日掲載