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生姜事件 千早茜

 不惑を越えたが、大人になりきれていないと感じることが多々ある。

 近所の商店街へ夕飯の買い物にいった時のことだ。途中、とある個人店に入った。目当てのものを購入し、帰ろうとすると、店員のお婆(ばあ)さんが突然、「料理している時、いちいち生姜(しょうが)をすりおろすのは面倒だろう」と言った。店を見まわすが私しかいない。先に断っておくがそこは八百屋ではなかった。商品に生姜はない。

 突然のことで、つい正直に「特に面倒ではありません」と答えていた。お婆さんは私の返事など聞こえていないかのように「アタシね、いい方法を知ってるんだよ。もう生姜をいちいちすりおろさなくていい」と説明をはじめた。まず大量の生姜をすりおろす。ラップを二枚だし、すりおろした生姜を一枚のラップの上になだらかに伸ばす。もう一枚のラップを重ねて包み、そのまま冷凍庫で凍らせると板状のすりおろし生姜ができる。あとは必要な時にパキパキと折って使えばいい。保存もきく。「わかったかい」とお婆さんは言った。「じゃあ、帰ってやってみるんだ」

 私はつい「しないと思います」と言ってしまった。「どうして!?」とお婆さんが目をむく。「生姜をするのが面倒だと思ったことがないからです。生姜用の卸し金もありますし」私がそう答えると、お婆さんは「わからなかったんだね。いいかい、簡単なんだ」と最初から板状すりおろし生姜の作り方を説明しだした。より事細かに。豆腐の保存方法も語りだす。結局、私は三十分、店先でお婆さんの講習を受けることになった。

 「やってみます」と言えばすぐ解放してもらえたのだろうか、と同年代の編集者に相談した。でも、嘘(うそ)はつきたくない。ばったり会った時に「どうだった?」と訊(き)かれたら嘘に嘘を重ねることになってしまう。悩む私に編集者は言った。「そういう時は『教えてくれてありがとうございます』です。試すか試さないかは伝えなくていいんですよ。ちなみに、私は生姜はチューブです」。目から鱗(うろこ)だった。大人への道は遠い。=朝日新聞2023年11月8日掲載