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辻井南青紀さんに時代小説の新たな可能性を気づかせたコーマック・マッカーシーの驚異的な文体

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』(ハヤカワepi文庫)

 もう10年以上前のこと、出版社のひとたちとの酒席で、ある作家の名前を出したら「日本では売れない」と一蹴された。
 長年もっとも尊敬し、手本としている作家だった。
「日本の狭い風土を舞台に、ああいう世界を描くのは不可能だ」と文芸評論家に断じられたこともあった。

 2023年6月、小説家のコーマック・マッカーシーは89歳で亡くなった。
 現代アメリカ文学の最高峰たる存在で、ピュリッツァー賞受賞作でアメリカでは100万部のヒットとなった『ザ・ロード』以来、本格的な次回作がずっと待たれていた。
 噂ではあと4作あるということだったけど、16年のあいだ動きがなく、ようやく刊行されたのが遺作になった。
『THE PASSENGER』『STELLA MALIS』という、現代世界を黙示録的にとらえた壮大な2部作だが、まだ翻訳が出ていないのでキンドルで少しずつ読んでいる。

 マッカーシーの小説はほぼどれも、まず単行本で買ってそのあと文庫で追いかける一方、電子書籍のキンドルを枕元に常備、車を運転する時は窓を閉め切って大音量でCDのオーディオブックをかけ、朗読を口に出して復唱しているうちに、なんかわかった気になる。
 英語版と日本語翻訳版を読み比べて「なるほど、こういう表現か」と確かめる日々を送っていると、最後の一行に至るのが怖くなってくる。読み終えたら、自分の中の何かが終わってしまう。
 というわけで、一向に終わることなく、延々とあちこちの場面をランダムに読み続けて、今に至っている。

 マッカーシーは50代半ばまで、ある意味カルト的な作風で一般読者には近寄りがたい作家だったときく。
『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』からなる「ボーダー3部作」で、人生の後半になって新境地を開拓した。
 1950年代以降の、アメリカ・テキサスやアリゾナからメキシコに至る荒野を舞台に、愛馬や狼とともに地平の彼方へと旅立つ少年たちのビルドゥングス・ロマン(成長物語)だ。清冽で過酷な世界が、厳かな筆致で精緻に描かれている。

 第2作の『越境』の冒頭を初めて読んだ時、打ちのめされた。
 雪の夜、雪原を駆け巡る狼たちを、主人公の少年が息を殺して間近に見る場面だった。
 何度読んでも、いったいどういう仕組みでどのように描かれているのか、どうしたらこんな風に描くことができるのかわからなかった。
 まず、全感覚が研ぎ澄まされている。もの凄く精確なことばで、宇宙的な哲学を凝縮させた光るような1行が、惜しげもなく、そこここにある。
 微に入り際にわたる描写は、まるで映画を観ているようで、初めて読んだ時にはかすかな苦痛すら覚えた。けれど、脳の中にそれらのことばと光景がひとたび入っていったん像を結ぶと、そのあとは忘れることも、消すことも、絶対できない。
 単に映像的であることを超越した、驚異的なヴィジョンだった。

 晦渋な作風とされるコーマック・マッカーシーは、決してゴリゴリの現代文学というわけじゃない。
 実は西部劇、ノワール、近未来ディストピア、などなど、いわゆるエンタメ的なジャンルやモチーフを毎回取り入れていて、アプローチが柔軟でもある。
 極度のインタビュー嫌いで、「自分にとって小説を書くのは、靴紐を結ぶのと同じくらいのことだ」とどこかで語っていたらしい。
 今ならわかる気がする。まさにそうだ、と思う。

    ◇

「カルト的な作風で一般読者には近寄りがたかったアメリカ人作家」、かつ「極度のインタビュー嫌い」といえば、もうひとり知っている。
 これも10年近く前のことだ。来日したアメリカ人作家のデニス・ジョンソン氏夫妻を、寺社仏閣へ車で案内したことがある。
 世界中でカルト的人気を誇る短編集『ジーザス・サン』で知られ、脱稿までに26年をかけた大長編『煙の樹』が全米図書賞を受賞している。2017年に肝臓癌で亡くなった。

 コーマック・マッカーシーと同様、極度のインタビュー嫌いだったデニスは、あるインタビューで「オレが信じるのはゴールドと車と銃だ」と豪語していたらしい。
 お目にかかってみると、穏やかで冗談好きの颯爽とした60代で、しかし何を考えているのかわからない目をしていた。実際に書いていることはとんでもなくヤバくて、普遍性があった。要するに、かっこいい60代とはかくあるべし、という人物だった。
 朝、軽自動車でホテルに迎えに行くと、オレンジのポロシャツにスリムなスラックス姿で若い奥様と一緒に登場した。
『ジーザス・サン』に描かれているような、アルコールとドラッグまみれの生きざまなど微塵も感じさせず、食事中は緑茶を飲み、訊けばアルコールはもう25年以上一滴も飲んでいないという。

 その時、デニスに質問してみた。
「作品の中で、人物を死なせたり傷つけたりすると、その業がめぐりめぐって自分の大切なひとを死なせたり傷つけたりする……そういうジンクスを信じますか?」
 すると、隣にいたシンディ夫人が笑った。
「もしそうなら私はとっくに死んでるわ。だってこのひと(と隣のデニスを指し)、小説の中で奥さんを3回死なせてるから」
 僕らは思わず顔を見合わせて笑った。
 コーマック・マッカーシーの小説に話が及ぶと、デニスは「ああいう凄みのある描写は、とてもできない」とはっきり言った。

 コーマック・マッカーシーのように、映像的な視点と思念的なことばを徹底的に尽くして場面を精緻に描写する作風は、一般に「オーバー・ライティング」と呼ばれている。デニスはおそらくそのことを言っていた。
 しかし昨今の小説では、洋の東西を問わず、余計なことばを削ぎ落してミニマルに、最小限のことばと表現で最大の効果をねらう、いわゆる「ミニマリズム」の文体が優勢のように見える。長々と雄弁に語るよりも、さっと短く的確に、深みと余韻を湛えつつ、ということなのだろうか。
 事実、大ヒット作となった『ザ・ロード』以降、コーマック・マッカーシーの文体は、センテンスがどんどん短くなっている。遺作の『THE PASSENGER』では、日本語ならいわゆる「体言止め」と呼びうるくらい短いセンテンスで断じるリズムがところどころに現れて、小説のタッチを形作っている。

 一方、ふたりの作風に共通するのは、登場人物の会話がとにかく凄い、ということだった。
通常、物語の中で2人の人物が対話をするときには、水面下で働く「強制力」がある。
「言われたことに答えなくてはいけない」という無意識レベルの命令によって、テニスか卓球のようなリターンマッチを自動的に「書かされる」ことに陥りやすい。
 けれど彼らの人物は、相手の問いかけてくることには安易に答えない。といって、はぐらかすでもなく、受けた何かの「倍」を返してくる。野球のピッチャーにたとえると、何食わぬ顔でいきなり300キロの球をストライクゾーンに投げ込んでくる。

    ◇

 日本では売れないとか、日本語では表現できないとか、コーマック・マッカーシーの作品世界はひところ、そんな風に言われて来た。
 でも今では「そんなことない」と思っている。「いや、まったくそんなことなかったよ」と、声を大にして言いたい。
 実は、歴史小説や時代小説というジャンルなら、いくらでも可能なはずだ。
 コーマック・マッカーシーのように、広大なランドスケープの中で、自然と動物と人間を徹底的に描いて、その生存闘争の渦中にある魂のありようを浮かび上がらせることも。
 デニス・ジョンソンのように、現実世界の汚濁の中に神話的ともいうべき歪みを見出し、増幅させ、そこに顕現する神々しい何かが激しく読者の魂を揺さぶることも。
 こういうことを、一見エンタメ的なジャンルと決めつけられている歴史・時代小説のカテゴリで堂々とやってのけることこそ、これから挑むのにもっとも価値のあることと確信している。