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井上真偽さんの読んできた本たち 遺伝子情報工学を専攻したミステリ作家は「安部公房の影響を受けていた」

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「ゲームを考案する子供だった」

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

井上:絵本をよく読んでいました。具体的なタイトルはあまり憶えていないんですけれど、『ねむれないねむれない』という、眠れない犬が出てくる絵本が好きでした。それと、『おこりっぽいやま』という火山の絵本や、松谷みよ子さんの「オバケちゃん」シリーズも好きでした。『ねこによろしく』とか。オバケちゃんが、挨拶の最後に必ず「ねこによろしく」という話ですね。印象に残っているのはそのあたりです。

――そうした絵本は家にあったのでしょうか。それとも図書館で借りたりとか?

井上:家にあったものもあるし、図書館で読んだものもありました。親はそんなに読書家というわけではなかったんですが、家の本棚には世界全集みたいなものがありました。本棚を買ったから本を入れておこう、くらいの感覚だったと思います。家にあった本でいうと、アガサ・クリスティーとか『赤毛のアン』とか。それは母親の趣味でした。

 小さい頃にいちばん読んだのは『ドラえもん』です。幼稚園の頃に怪我をして入院したんですが、その時に父親の友達が「暇だろうから」といってどっさり持ってきてくれたんです。基本的な世界の知識は『ドラえもん』で知りました(笑)。地球は丸い、とか。

――小学校に上がってからの読書はいかがでしたか。

井上:小学生の頃はいつ本を読んでいたのかあまり記憶がないんです。学校の図書室もそれなりに使っていたと思うんですけれど...。どちらかというと外で遊んでいました。近くに防空壕のある山があって、そこで探検をしたり、自転車で出かけてサイコロを振って出た目の方向に行く遊びをしたり。崖みたいなところから下がっているツルを使ったターザンごっこという、リスキーな遊びもしていました。釣りもしたし、野山で遊ぶのが好きな子供でした。

 ああ、でも、本も読みました。親戚のおじさんが本をいっぱい持っていたんです。おじさんに古書店をやっている知り合いがいたらしく、「売上がないから買ってきてあげた」と言っていて。本好きな人が見たら怒るんじゃないかと思うくらい雑な感じで押し入れに本が積みあがっていました。おじさんの家に行くたびにそこから適当に本を選んでごっそり持って帰っていました。

――それで読んだ本で印象に残っているのは。

井上:『三国志』です。子供向けの本ではなく、大人でも読みづらいんじゃないかと思うような、電話帳くらいの大判の本でした。読みだしたら面白くて。その流れで『水滸伝』も読みました。

――何がどこまで面白かったのでしょうか。キャラクターとか?

井上:キャラクターと活劇ですね。次はどんな豪傑が出てくるんだとワクワクしましたし、めちゃくちゃなエピソードもたくさんあって。

 漫画も好きで、「ジャンプ」っ子でした。中学の時は毎週誰かしらが買ってくるので回し読みしていました。『ジョジョの奇妙な冒険』のキャラクターや、言い回しが大好きでした。自分の小説に傍点が多いのは、「ジョジョ」の影響があると思います。

――ごきょうだいはいらっしゃるのですか。

井上:姉が一人います。姉の影響でコバルト文庫も読みました。『クララ白書』など氷室冴子さんの作品を読んだ記憶があります。

――今思うと、どんな子供だったと思いますか。

井上:結構、騒いでいるほうの子供だったとは思います。小学生の頃はクラスで何か流行らせるのが好きでした。じゃんけんゲームなどを考えましたね。じゃんけんで勝つと「ドラクエ」みたいな呪文が使えて相手にダメージを与えられる、みたいなシンプルなゲームを考えてみんなでやっていました。そういうことをしていたので、昔はゲームクリエイターになりたいと思っていました。

――国語の授業は好きでしたか。

井上:あまり勉強で嫌だったとか楽しかったという記憶はないんです。ただこなしていただけというか。作文や読書感想文も、求められていることがなんとなくわかるので、「こういうのを書けばいいのかな」ということをそつなく書いていたように思います。嫌な子供ですね(笑)。

――文章を書くのは好きでしたか。

井上:お話を作るのが好きでした。さきほどゲームを作っていたと言いましたが、漫画も描いていたんです。子供の描く下手な漫画ですけれど、A4のノート何冊分も描いて、みんなに回し読みしてもらっていました。内容は基本的に「ジャンプ」のパロディみたいなバトルものです。

 漫画家になりたかった時期もありますけれど、そんなに頑張れませんでした。一度中学生の時に、ハリガネ漫画――人の顔を〇で、体を棒で描いただけの漫画を「ジャンプ」のギャグ漫画大賞に送ったんです。そうしたら当時の副編集長から電話がきて「頑張れ」みたいなことを言われました。それが漫画についての最大の思い出です。

――棒人間の漫画で電話がかかってくるとは(笑)。ギャグが秀逸だったのでは?

井上:今思うと、何を評価したんだろうって感じですよね(笑)。でもどうしても絵が上達しなかったので、それで漫画ではなく文章の方向にいったところがあります。

 文章を書き始めたのは中学生の時からですね。剣道部に入っていたんですが、練習場に黒板があって、練習前の30分くらいで黒板1枚におさまるショートショートを書いたら、周りの反応がよかったのを憶えています。

――どんなお話を書いていたのですか。

井上:映画のワンシーンを切り取ったような内容です。今思うと本当にくだらないんですけれど、スパイが追い詰められるけれど最後に大逆転してキメ台詞を言って終わる、みたいな。あとは、誰にも見せない小説を執筆衝動の赴くままに黙々と書いていました。

 当時は、何か作りたくてしょうがなかったんです。自分の中にあるものを吐き出したいというか。ゲームも好きだったので、その流れでゲームブックも書いていました。テーブルトークRPGのシナリオですね。パソコンでゲームづくりもしていました。シンプルなプログラミングですが、文章で「ドラクエ」みたいに闘っていくゲームです。

「海外ファンタジー、ミステリ、国内作家」

――自分一人で書いていたのは、どんな小説ですか。

井上:当時『指輪物語』が好きで、その影響でファンタジーの世界観の小説を書いていました。魔法が出てくる話です。

――ああ、『指輪物語』も好きだったのですね。

井上:ファンタジーは他にも読みました。ハヤカワ文庫の「エルリック・サーガ」シリーズや「魔法の国ザンス」シリーズ、「ベルガリアード物語」シリーズとか。剣と魔法の世界が好きだったんです。

 SFも『夏への扉』など有名どころは読みました。深く何かの分野を突き詰めるというよりは、広く浅く読む、みたいな感じでした。

――そういう本はどうやって見つけていたのですか。

井上:書店に行って面白そうなタイトルを見つけては読んでいました。ハヤカワのファンタジー文庫の棚に行くとワクワクしましたね。そうやって読んでいると、巻末の解説や広告に他の本の紹介があるので、「これ有名なんだな」と思えばそれを読むという。

――親御さんの本棚にあったアガサ・クリスティーは読みましたか。

井上:中学生くらいの頃だったと思いますが、読みました。『アクロイド殺し』なんかはすごく衝撃でしたが、その時は別にミステリだと意識していたわけではなく、お話として読んでいました。

――『アクロイド殺し』の結末にびっくりしませんでしたか。

井上:「えー!」ってなりました(笑)。でもトリックの手法などを知らなかったので、「えー!」止まりでした。『アクロイド殺し』や『そして誰もいなくなった』などはオチを知らないうちに読めたのは幸せだったかもしれません。他にはホームズも『バスカヴィル家の犬』などを読みました。でもそれも、謎解きを意識して読んでいたわけではないです。

 中学生時代からポツポツと、太宰治とか、W村上も読むようになりました。村上龍さんの『愛と幻想のファシズム』が面白くて。村上春樹さんの『ノルウェイの森』は、友達に「これ、めっちゃエロくない?」と言って渡されたんです(笑)。そんなきっかけで読み始めたんですが、面白かったので当時出ているものは一通り読みました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とか『ねじまき鳥クロニクル』とか。

 太宰治は『人間失格』や『斜陽』などを面白く読みました。文章がすごく読みやすかったですね。『斜陽』の、お母さまは体をかがめることなくスプーンでスウプをきれいに飲むけれど、自分は真似できないのでマナー通りにお皿の上に身をかがめて飲む、という描写などは、気持ちがわかるなと思って。太宰が書く、コンプレックスを感じている人の気持ちには共感しました。

――高校時代はいかがですか。

井上:相変わらずゲームづくりをして、漫画や小説も書いていましたが、たいがいは剣道部の活動をしていました。剣道は小学生の頃に親に道場に連れていかれてなんとなく始めたんですが、惰性で続けていました。

 メインの部活は剣道部だったんですけれど、サブで文芸部みたいなところにも入りました。活動は文化祭に出す部誌を発行するくらいで、それに合わせて年に一篇短篇を書いていました。それと、年に一度、文化祭の時だけ活動する劇団もあって、そこに入って既存の脚本を編集したりしていました。三谷幸喜さんの「ラヂオの時間」の脚本をコンパクトにまとめたり。

――読書生活は。

井上:憶えているのが、クラスメイトの女の子から、「こういうの好きでしょ」と安部公房の『箱男』を薦められたこと。読んでみたら確かに好きだったんですが、なぜ「好きそう」とわかったのかはいまだに謎です。安部公房は他にも『砂の女』や『カーブの向う・ユープケッチャ』を読み、一時期真似して安部公房っぽい文章を書いている時期がありました。要はシュールレアリスムです。

 安部公房の小説にユープケッチャという、完全自給自足している芋虫が出てくるんです。基本的に円を描いていて、自分が出した糞を食べているんです。糞の中で微生物が栄養を作ってくれるので、それで人生が完結しているんですね。それに影響されて、光合成するサルの短篇を書きました。それは文芸部の部誌に載せたんだったかな。

「工学部に進み、哲学書を読む」

――一人の作家が気に入ると、その作家の他の作品も読むタイプですか。

井上:そうですね。その作家の代表作を読むという感じです。

 京極夏彦さんの小説をよく読んだのも高校時代で、感銘を受けました。自分は理系だったので、量子力学の話があんなふうに妖怪の話に出てくるところにすごく影響を受けました。でもやはりミステリと意識していたわけではなく、語りが面白いので読む、という感じでした。

――理系と文系に分かれている高校だったのですか。

井上:あ、いえ、分かれてはいなかったのですが、自分の気分は理系でした。大学に行くんだったら理系だな、って。プログラミングをしていたこともあって、理数系のほうが好きというか、しっくりきたんです。

――それで、東京大学の理系の学部に進まれたんですね。

井上:工学部です。大学に進学してからは参考書や研究に関する本を読むようになって、あまり小説を読まなくなりました。流行っている小説を読む程度でしたね。他に哲学書的なものはちょっと読んでいました。

――哲学書的なものというのは、どのあたりですか。

井上:一通り読みましたけれど、いちばん興味があったのは認識論といって、どういうふうにものを認識するか、というものでした。高校時代から興味があったんです。

 学者でいうと、プラトン、デカルト、カント、フッサールなど。そこから言語哲学にも広がって、ウィトゲンシュタイン、ソシュールとか...。認識するとはどういうことかを突き詰めると、言語の問題にいきあたるなと思ったんです。それは研究とはまったく関係なくて、ただ興味があったので読んでいました。

 昔から言葉については敏感だったみたいです。親がよく言うのは、自分は子供の頃、「スリッパってなんでスリッパって言うの?」などと訊いてたらしいです。親が「そう決められているから」と言うと、「じゃあこれからはスリッパのことをタオルって呼ぶね」と言い始めるから、「混乱するからやめて」と言っていたらしいです(笑)。そんな感じで、言葉とは何か、については前から問題意識があったようです。

 ああ、今思い出しました。プラトンが書いたソクラテスの対話編に『クラテュロス』という、「モノの名前」について論じた巻があるんですが、それを高校の時に読んで、子供の頃に考えていたこととぴったり一致して驚いたんです。そこからすごく哲学に興味を持ったんだと思います。 

――大学時代、将来は研究の道に進もうと思っていましたか。

井上:大学時代から小説家を目指すようになって、在学中に頑張って書いていたんですが、その時は文学寄りで、「すばる」などに応募していました。そこでは全然一次も通らなくて、卒業と同時にすっぱりと諦めました。

 その頃書いていたものは、安部公房の影響が大きかったと思います。昔からファンタジーが好きで書いていた流れから幻想小説のほうに行った感じです。人間と同じような社会を作っている鳥みたいな種族の話なんかを書いていました。その種族の子供が親に糞と間違えられて嘴で巣から押し出されたところから始まるんです。今考えるとルッキズムの話でもあるかもしれませんが、その種族の中では醜いとされている主人公が、差別的な扱いを受けながらも生きていく話でした......って、なにを書いているんでしょうね(笑)。

 あ、大学最後のチャレンジとして、漫画もひとつ仕上げて集英社に持ち込みました。それは剣と魔法の世界ですごく強い女の子が敵をやっつける、みたいな話で。目の前で編集者さんに読んでもらったんですが、読む前と読み終わった後で、何の表情の変化もなかったです(苦笑)。

――工学部ではどのようなことを学んでいたのですか。

井上:大学院でやっていたことのほうが話しやすいのでそちらをお話ししますと、遺伝子情報工学ですね。遺伝子情報は四種類の塩基の配列で決まり、そこからタンパク質を作るアミノ酸の配列が決まります。主に取り組んでいたのは、そのアミノ酸配列からタンパク質の立体構造を予測する、タンパク質構造予測といわれる分野です。それで何ができるかというと、シミュレーションで薬が作れるんです。タンパク質の構造によって反応するかしないかがわかるので。

 タンパク質に興味があったというよりは情報工学がやりたかったんです。結局そこでも使われているのは、統計的な知識だったり、今でいうディープラーニングの前身のニューラルネットなどの技術で、つまり理数系の知識の応用なんですね。やりたかったのはそういう、理数系の知識を現実に応用するということでした。

 その頃やりたいことはふたつあったんです。ひとつは、小説などクリエイターの仕事。もうひとつは数学的な知識を応用した技術を使ったサービスでの起業で、そのひとつの例がタンパク質の構造予測だった、という感じです。

 大学院時代も研究などに費やしている時間が多かったので、小説はあまり読んでいませんでした。プログラムの本などのほうが読書の比重は大きかったです。

――院はいつまでいたのですか。

井上:修士課程までです。その後は企業に就職しました。でも若気の至りで結構早めに辞めました。起業したくていろいろやりましたがうまくいかなくて、また企業に戻って、しばらくは小説のことも忘れていました。読むこともあまりしませんでした。

「再び小説を書き始めたきっかけ」

――では、その後執筆や読書を再開したのは、なにかきっかけがあったのですか。

井上:大学時代に書いた小説を小さな文学賞に応募したら入選したんです。それで、もう一回やってみようという気持ちになりました。

 そのとき応募したのはまったくミステリではなく、本当に哲学的な、意識問題の話です。その話はもうちょっと自分の名前が売れて、ある程度いろんな本を出せるようになったときに、短編集などの形で世に出せたらなと思っています。自分で読み返しても読みごたえがあるんですが、今出してもスルーされそうで。でもAIの時代を迎えた今、この先意識問題もクローズアップされていくだろうから、出すタイミングを見計らっているところです。

――それは読んでみたいです。その後、書く小説は哲学的なものから離れていったわけですか。

井上:もう一回やってみようと思った時に、どんな賞があるのか調べてみたんです。そこでエンタメというのはどういうものかを学んで、シフトしていきました。もともと物語を作るのが好きだったので、大学時代に哲学っぽい小説を書いていたのはある意味ちょっとズレていたというか。再開するにあたって初心に戻って、物語として面白いものを書くことにしました。新潮社の日本ファンタジーノベル大賞にも応募したりもしましたが、エンタメの新人賞って大半がミステリの賞なんですよね。でもその頃の自分は本格も新本格もわかっていませんでした。日本のミステリを意識して読むようになったのはデビュー作を書いていた頃なので...。

――え。井上さんは『恋と禁忌の述語論理(プレディケット)』でメフィスト賞を受賞してデビューされましたよね。個性的な探偵たちが披露する推理を、数理論理学者の硯さんが検証してひっくり返していく。論理的に推理の穴を突いていく過程がスリリングな作品です。それまでミステリに詳しくなかったのに、あれがいきなり書けたんですか。

井上:確かによく書いたと思いますが(笑)、よくよく考えてみると、ミステリって理系の論文に近いんです。問題の提起があって、それに対する仮説があって、証明する、というのは同じなので、そのフォーマットにのっとってみたら書けました。むしろ他のエンタメに比べたら書きやすかったかもしれません。デビュー作も、数理論理学をどう噛み砕いて書くかは苦労しましたが、プロット自体はそれほど悩まずにできました。

――デビュー作を書く時に日本のミステリを読んだのは、どういう観点からですか。

井上:トリックを考えても前例があったら駄目だなと思ったんです。それで、たとえば足跡トリックだったらそれが出てくるミステリを片っ端から読み、まだ書かれていないトリックを考える、という。「足跡トリック」で検索して探していたので、検索にひっかからなかったものはカバーしていないんですけれど。

――硯さんと彼女の甥っ子の会話も楽しいし、出てくる探偵もみんなキャラクターが立っていますよね。そういうのはどうやって作ったのですか。

井上:ああ、それは西尾維新さんの影響を受けています。西尾さんの作品はいつ読んだのかな...。それまでは翻訳ものを読むことが多かったので、書く文章も三人称の翻訳調だったんですよ。西尾さんの小説を読んだ時、日本語の文章でこんな面白いものが書けるんだと思って。そこからは文章そのものの読みやすさを目指すようになり、西尾さんの本をまる一冊模写したりもしました。模写は結構いいですね。キャラクター造形も西尾さんの影響を受けていると思います。

 メフィスト賞に応募したのも、西尾さんの出身の賞だったからです。最初に送ったのは、スパイコメディものみたいな話でした。あの賞は応募原稿を読んだ編集者たちの座談会が「メフィスト」に載るんですが、そこで取り上げられたんです。結構こき下ろされたんですけれど、載るということは相性がいいのかなと思い、そこでもうちょっとメフィスト賞のことを調べました。今思うと、メフィスト賞って別にミステリに限定して募集してはいないんですけれど、当時はミステリの賞だと思いこんでいたんです。それで、ミステリをいろいろ勉強して書いたのが、『恋と禁忌の述語論理』でした。

「ロジカルなミステリの作り方」

――では、ミステリ作家になろうと思っていたわけではないのですか。

井上:そうですね。それを足掛かりにいろんなものを書いていこうと思っていました。

――2作目の『その可能性はすでに考えた』の探偵・上苙(うえおろ)は、『恋と禁忌の述語論理』に出てくる探偵の一人ですよね。前から再登場させようと思っていたのですか。

井上:上苙のキャラクターは使い捨てのつもりだったんです。2作目をどうしようかという話になった時に、『恋と禁忌の述語論理』は世間様の受けがあまりよろしくないから違う話にしようということとなって...。

――自分は「恋と禁忌」のむっちゃロジカルなところが好きでしたけれど...。でもあれはあれで話が完結してるから、続篇は難しいですしね。

井上:いえ、実はタイトルだけなら5作くらい用意していたんです(苦笑)。でも他の話にしようという話になった時に、デビュー作にいろんな探偵が出てくるので、そのキャラクターの誰かのスピンオフを書いたらどうかと言われて。探偵のキャラクターの中でいちばん受けがよさそうだったのが上苙だったので、彼を使って書くことにしました。

――ひとつの事件を巡っていろんな推理が出てくるなかで、上苙が「その可能性はすでに考えた」といって、ロジカルに否定していく話ですよね。本格ミステリ大賞の候補にもなりましたし、これこそ本当に、本格好きの著者が書いたんだと思わせるミステリでした(笑)。

井上:これを書いた時は、本格ミステリというものもまだ全然わかっていないし、多重解決も知らなかったんですよ。2作目で適当なものを書いたら作家として消えると思って必死で書きましたが、本格ミステリという文脈で、あのように評価してもらえるとはまったく予想していなかったです。本格ミステリ大賞の授賞式の二次会で法月綸太郎さんが隣に座られて、ディクスン・カーの話をしてくださったんですが、カーの作品をあまり知らないので、どうしようと思いながらうなずいていたくらいで...。

 ただ、書いてみるとすごく楽しいんです。本格ミステリのようなフォーマットは自分の肌に合っていたと思います。

――じゃあ、『探偵が早すぎる』はどのように生まれたのですか。

井上:打ち合わせの時に思いつきで「事件が起きる前に解決してしまう探偵」と言ったら「いいですね」と言われたという、軽いノリで決まりました。本格ミステリのフォーマットを使いながら、今までにない面白い探偵を作れるかなと思っていたら出てきた設定です。

――井上さんの作品は毎回設定や展開が巧妙ですが、どうやってプロットを作っているんですか。

井上:最初のうちはプロットを作っていなかったんです。書きながら先を考えていって、後から情報を整理していました。『その可能性はすでに考えた』の時なんかは、とりあえず事件部分を書くんです。どうやって解決するかは考えず、ひたすら難しいシチュエーションを書いていって、探偵が反論するシーンは「※ここで探偵が反論する」くらいなことしか書かずにいて、最後まで書いてから「※」のところを埋めていました。正直このやり方はお薦めしません。最後の最後まで「果たしてこの小説は完成するのか」と不安に苛まれながら書き続けることになるので。『ムシカ 鎮虫譜』あたりからプロットを作るようになりました。

――その『ムシカ 鎮虫譜』は本格ものではなく、パニックホラーですよね。無人島を訪れた音楽大学の学生グループが虫に襲われるという...。

井上:あれはデビュー前からネタの中にあったんです。もともと冒険活劇みたいなものも好きで、ジブリなら「天空の城ラピュタ」が好きですし、特殊能力の話も好きですし。そこからアイデアを組み合わせて、音楽で虫を撃退するというゲーム的なものを発想したんです。まあでも、虫の受けがよくなかったですね。世間にはこんなに虫が駄目な人が多いのかと思い知りました。

――今年刊行した『アリアドネの声』はドローンによる救出劇ですよね。巨大地震が発生、大打撃を受けた新設の地下都市に女性が一人取り残される。主人公たちはドローンで誘導してその女性を救出しようと試みますが、彼女は耳が聞こえない、目が見えない、話せない。

井上:テレビか何かで救助用のドローンの紹介を見て、これは話に使えるなと思っていたんです。自分としては、デビュー前にはテロリストの話やパニックものも書いていたので、新しい作風に挑戦したという意識はなく、むしろ持っているネタのひとつを書いた、という感覚です。

――地下五階から地上に導いていく過程だけで緊張感を持続させて描き切っていますよね。タイムリミットがあったりトラブルが起きたり謎が生じたりしつつ。

井上:多視点で書く方法もありましたが、これはやっぱり一気に最後まで読んでもらうためにスピード感を大事にしたいと思い、あの形にしました。

――ネタバレになるので具体的には書きませんが、意外なことがわかるラストがよかったです。

井上:ドローンで人を助けるというネタは4、5年前からあったんですが、もうひとつ何かないかなと思っていて。ラストシーンが浮かんできたのは去年くらいで、それで「あ、これは書けるな」と思いました。

「話題の新作、最近の読書」

――すごいなと思っていたら、今年はもう1作、また違う作品を発表されましたね。『ぎんなみ商店街の事件簿』は2分冊の作品で、商店街や学校で起きた同じ事件の真相を「Sister編」では三姉妹が、「Brother編」では四兄弟が違うアプローチで推理していく。

井上:これは小学館から、「『きらら』と『STORY BOX』という小説誌があるんですが、その二誌で同時に連載しませんか」という依頼を受けたんです。それでなにかアイデアはないかなと考えていた時に、ふと、同じ事件について違う推理が進む話が面白いかなと思って。

 ます浮かんだのは三姉妹です。というのも、先ほど言った、最初にメフィスト賞に応募したスパイコメディみたいな作品が三姉妹ものだったんです。ダメ長女にしっかり者の次女三女という原型がそこでできていたので、使うことにしました。姉妹と対象性を持たせるためにもうひとつは四兄弟にしました。商店街を舞台にしたのは、その頃読んでいた小説が東野圭吾さんの『新参者』で、下町の人情ものっていいなと思っていたから(笑)。それで、ほのぼのしたミステリにしようと思っていたら、編集者から「人は殺してください」と言われたので、第一話で殺しました(笑)。

――ひとつの事件に複数の謎が潜んでいるんですよね。片方だけ読んでひっかかりを感じた部分が、もう片方でちゃんと回収されていくのが痛快で。二冊のどちらを先に読んでも大丈夫ですが、私は一話ずつ、交互に読んで楽しみました。

井上:好きなように楽しんでもらえたら嬉しいです。書店員さんからの感想で「夫婦で一冊ずつ読んで話し合ってます」というのがあって、そういう遊び方をしてくれているのがすごく嬉しかったです。一部のミステリファンの方が楽しんでくれたらいいなと思っていたんですが、普段ミステリを読まない人たちも興味を持ってくださっているので、それは嬉しい誤算でした。

――大重版されたそうですね。作中にいろんな実在の小説や絵本が出てくるのも楽しいんですが、あれはどうセレクトしたのですか。

井上:四兄弟の亡くなった母親が絵本作家という設定なので、自分が昔読んでいたものなどを出しました。それで今思い出したんですけれど、作中に出した『メアリー・ポピンズ』は中学生の時にクラスメイトに「これ好きそう」って言って渡されたんです。読んだら確かに面白かったんですけれど、なんで『メアリー・ポピンズ』だったんだろう...。

――『箱男』といい『メアリー・ポピンズ』といい(笑)。三姉妹のほうはミステリ好きの子たちが登場するので、『熊と踊れ』なんかが出てきますよね。

井上:あれは年末のランキングに載っていたので読みました。海外ミステリは気になるものとか、映画の原作などはわりと読んでいます。『ブラック・ダリア』のエルロイとか。ただ、系統立てて網羅的に読んでいるわけではないです。

――「ぎんなみ商店街」という名前もいいですね。

井上:連載時は商店街の名前が違ったんです。単行本にする際に「ひらがなの名前がいいんじゃないか」と言われたんですが、なかなか思いつかなくて。「ぎんなみ」は編集者さんが思いついてくれて、すごくしっくりきました。完全なアナグラムではないんですが、「井上真偽」のアルファベットを並べ直して思いついたそうです。

――ああ、なるほど。そういえば井上さんのペンネームの「真偽」って、何か由来があるんですか。

井上:デビュー作を書き終わった直後にペンネームを考えようとしたんですが、頭も疲れていて考える気力がなかったんです。適当に本棚から本をとったら、それが論理学の参考書で、適当に開いたら「真偽表」が載っていたので、「これでいいか、でも読み方は"しんぎ"だとそのままだから、"まぎ"にしよう」と...。

――井上さんは覆面作家で年齢も性別も非公表ですが、それはどんな思いがあったからですか。

井上:作品に作家のイメージをつけたくなかったんです。自分が読む時、あんまり作家の存在を意識したくないんですよね。でもそれは少数派なのかなと思います。自分も今後、なにかのタイミングで覆面を脱ごうかなとは考えてはいるんですけれど...。

――今日お会いするまでまったくどんな方か分からなかったんですが、ただ、めっちゃロジカルな人なんだろうなと想像してました。

井上:いやあ...。中途半端なロジックが気になることはありますよ。人の話を聞いていて「それ理屈になってなくない?」と感じることとか。でもそれを指摘したりすることはないです。そこまで怒ることもないですし、普段はぼんやり生きています(笑)。

――普段の、1日のタイムテーブルはどんな感じですか。

井上:生活は結構不規則ですが、午前中に原稿を書いて午後は別なことをするパターンが多いですね。別なことといっても資料読みなど、執筆に関わることはいろいろあるので。それと、最近はよくゲームをしています。FPSゲームとか、主人公が何度も死にながら敵の倒し方をおぼえていく死にゲーとか。

――デビュー後の読書生活に変化はありましたか。

井上:さらに流行りものを読むようになりました。今どんなものが受けているのか、より意識するようになって、本屋大賞受賞作などを読んでいます。その前から辻村深月さんは読んでいて、大好きですね。辻村さんの書く一人称の文章は女性主人公の心情がめちゃくちゃ伝わってきます。『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』や、デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』とかが好きです。

 社会人になってからはどちらかというとドラマや映画を多く見ています。「24」や「プリズン・ブレイク」、「ゲーム・オブ・スローンズ」とか。次の展開が読めないものが好きです。映画だったらなんだろう...。最近では「ワイルド・スピード」とか。そうした小説以外のものから影響を受けたり、参考にしたりすることは多いかもしれません。

――今後のご予定を教えてください。

井上:今朝も書いてから来たんですけれど、今はプログラムのアルゴリズムを使った子供向けのミステリ小説を書いています。朝日新聞出版が創刊した「ナゾノベル」という子供向けのレーベルから出す予定で、年内に書き上げられれば来年出せるかと思います。

 朝日新聞出版からは「理数系の知識を使ったファンタジー小説」という依頼もいただいていて、それは長期的に書いていくつもりです。ファンタジーを読む人が理数系の知識を求めるのかわかりませんが、理数系の知識は自分の強みではあるので活かしていきたいですね。他にもミステリ以外の小説の依頼などもいただいているので、来年長篇を一本出せればいいなと思っています。

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