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「思い出すこと」書評 覚束ない言語で自分を解き放つ

評者: 山内マリコ / 朝⽇新聞掲載:2023年11月18日
思い出すこと (CREST BOOKS) 著者:ジュンパ・ラヒリ 出版社:新潮社 ジャンル:詩歌

ISBN: 9784105901905
発売⽇: 2023/08/23
サイズ: 20cm/221p

「思い出すこと」 [著]ジュンパ・ラヒリ

 著者のジュンパ・ラヒリはインド系アメリカ人。両親はベンガル語を話すが、自身は英語で小説を書く。デビュー短編集で二〇〇〇年にピュリツァー賞に輝いた、栄光の人物だ。
 移民の娘というバックボーンを持つラヒリが描く物語は、大陸をまたぎ壮大な広がりと深みを持つ。それだけで充分に文学的な泉となりうるが、彼女はその主題のみを書き続ける作家ではなかった。四十歳を過ぎてから、自分の意志でローマへ移住。イタリア語で作品を書きはじめた。
 そのとき入居した家具付きアパートの、書き物机の引き出しの中から、ラヒリは数冊のノートを発見。表紙に〈ネリーナ〉という名前があり、中には未発表の詩が眠っていた。これをイタリア詩の研究者に託し、主題別にまとめられ、この詩集は編まれたという。
 ネリーナもまたローマの異邦人だ。詩には、遠くに住む家族との、痛みを伴う思い出がぽろりぽろりとこぼれ落ちる。巻末の注釈では文法的な間違いや、そこに込められた意図が推測されている。母語の通じない国での生活は、何気ない言葉の端にも適度な緊張がある。気を張っているのだ。
 しかし同時に、自分で選び取った新たなる国と言語は、彼女を出自の属性から解放してくれる手立てとなる。「語義」のセクションではイタリア語の単語の意味や語感に、彼女が感じ取った所感が綴(つづ)られる。言葉遊びの流れでさらっと記された「祖国はわたしには重い」という一文。覚束(おぼつか)ない言語でだからこそ、吐き出せる本音がある。
 言い忘れていたが、本書は“自伝的”な作品。ラヒリとネリーナは、ベンガル系というルーツも家族構成も同じ。作者のオルターエゴ(別人格)だ。このわくわくするギミックは、さながら芸術家ソフィ・カルのアート・プロジェクトのよう。ジャンルに囚(とら)われず、どこまでも自己を解き放ち羽ばたこうと模索するラヒリは、アーティストなのだ。
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Jhumpa Lahiri 作家。1967年生まれ。著書に『停電の夜に』『わたしのいるところ』など。