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卓抜な比喩と言語感覚で時代精神を捉えた「翼 李箱作品集」 藤井光が薦める新刊文庫3点

  1. 『翼 李箱(イサン)作品集』 李箱著 斎藤真理子訳 光文社古典新訳文庫 1100円
  2. 『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』 彩瀬まる著 祥伝社文庫 770円
  3. 『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』 川本直著 河出文庫 1265円

 作風はまったく違えど、多面的な魅力を持つ3冊と出会った。1937年に夭折(ようせつ)した、韓国文学でも屈指の謎めいた作家の作品集である(1)は、都市を覆いつつあるモダンな生活に身を委ねる人々の感覚を忘れがたく刻み込む。夫婦関係は感情ではなく物や金銭によって媒介され、人々は街では匿名の存在となる。そうした時代の精神が、卓抜な比喩や言語感覚によって見事に捉えられ、その背後には、植民地支配者としての日本の姿が浮かび上がる。

 一転して(2)は、「食」を中心とした短編が並ぶ。飲食店が出す煮込み料理、ホームベーカリーで作る枝豆チーズパン、スーパーのコロッケなどの食事は、過去に抱えた傷や現在の人生への違和感、未来への不安と直(じか)につながっている。「食べる」という行為は、様々な感情を呼び覚まし、ときには人を強く呪縛しもする。それが日常において繰り返されていることの不思議が、ときに幻想的な描写とともに全編を貫く。

 作家の伝記を翻訳した書物、という体裁で展開される(3)は、20世紀中盤を駆け抜けたスキャンダラスな作家と、それを陰で支えたパートナーの物語を追っていく。性道徳の抑圧が厳しい50年代から、価値観が大きく揺らぐ60年代にかけて、作家ジュリアン・バトラーをめぐる文学界の人間模様を鮮やかに描き出す筆致は、ひとつの時代をまるごとのみ込もうという野心に満ちている。どこか翻訳調の文体や台詞(せりふ)回しの愉快さ、痛快と哀切を行き来する語りの魅力は圧倒的である。=朝日新聞2023年12月2日掲載