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藤岡陽子さんがメラの「Help Me」で踊りながら抱えていた「助けて」

©Getty Images

 毎日驚くほどに、規則正しい生活をしている。午前6時に起きて高校生の長男の弁当を作り、午後6時からは夕ご飯の支度を始める。
 その間は小説を書いたり、看護師として働いたり、ほぼ仕事をしている。
 私はいま52歳なのだが、30歳で長女を産んでから、ずっとそんな感じだ。2人の子供を育てるようになってから、夜遊びは一度もしたことがない。
 でも私は、それを不自由だとは思っていない。むしろもう、夜遊びをしたくはないのだ。

 というのも私の人生には、放蕩の限りを尽くした1年間がある。
 時は1989年。私が高校3年生、18歳になった年だ。
 私はこの年の1年間、実家を出てひとり暮らしをしていた。どうしてひとり暮らしをしたのかというと、前回のエッセイでも少し触れたのだけれど、両親が揉めていたので家から離れようと思ったのだ。このままでは自分の暮らしもダメになると考え、両親に頼みこんで家を出ることにした。
 ひとり暮らしといっても、優雅なものではまったくなかった。高校の近くにあった古家に間借りをしての下宿生活だった。月の家賃は2万円。トイレ、風呂、台所は共有で、私の部屋には夥しい数のダニがいた。
 そんな下宿生活でも、喧嘩が絶えない荒んだ実家にいるよりはずいぶんましで、「日中は」学校に通い、休日はたいてい外に出ることなく読書をして過ごしていた。
 そう、ただし「日中は」である。
 昼は六畳間で静かに過ごしていた私だけれど、夜になると京都の繁華街に出かけていたのだ。
 門限の10時を過ぎると、玄関にダミーの靴を置き、裏口から出て塀を越え、河原町へと繰り出した。
 時代はまさにバブルの全盛期。京都の街も夜ごと喧噪に包まれ、派手なネオンは東の空が白むまで灯り続けた。
 当時の遊び場といえば、ディスコだ。祇園にはマハラジャがあり、ただ値段が高いので、私はほとんど小さなパブで踊っていた。

 当時ディスコで流れていた音楽は、ユーロビート。電子楽器で奏でられるダンスミュージックで、デッド・オア・ライヴの『Turn Around and Count 2 Ten』やキング・コング&ジャングルガールズの『Boom Boom Dollar』などがどの店でもヘビーローテーションでかかっていた。
 数々のユーロビートが大流行した時代だったが、中でも大好きだったのはメラというイタリアのグループが歌う、『Help Me』という曲だった。陽気なメロディラインに乗せた定番のダンスがあり、この曲がかかると店内に歓声が上がり、みんなこぞってステージに立ち体を揺らすのだ。
 18歳の女の子が、しかも高校生がそんな夜の街で遊んでいたら、危ない目に遭うのではないか。このエッセイをここまで読まれた多くの方は、そう眉をひそめておられるのではないだろうか。
 結論から言うと、私が危険な目に遭ったことは一度もなかった。宵っ張りで遊んでいても夜明け頃には下宿に戻り、仮眠をとって学校に通っていたのだ。

 どうしてそんな芸当ができたのか――。
 なぜなら私は、ひとりで夜遊びをしていたわけではなかったからだ。同じ下宿で暮らしていた同級生のかなちゃん(仮名)が、「ひとりやと危ないから、私もついて行くわ」と必ず一緒に来てくれたからだった。
 かなちゃんは真面目で優しく、とてつもなく賢い人だった。あまりに頭が良すぎて、かなちゃんの実家近くの高校ではなく、下宿をしてまでも京都市内の進学校にやってきた地元の神童だった。
 もちろんかなちゃんは、夜遊びなどしたくなかったに違いない。それでも私がひとりで夜の街に出ていくのを、放ってはおけなかったのだろう。
「陽子ちゃんが行くなら、私も行くわ。ひとりやったら変な人に連れていかれるで」
 かなちゃんがいつも隣にいたので、私は本当に一度も、危険なことに遭遇しなかった。怪しい誘いは、彼女がばっさり断るから。
 でもそのうちに、かなちゃんをつき合わせていることが申し訳なくなって、私は夜遊びをしなくなった。高3だし、そろそろ勉強でもしようかと心が落ち着いた。
 私が20歳の時にバブルは終わった。泡が弾けた後の侘しい静けさは、みなさまも知るところだと思う。その後、『Help Me』を街なかで聴くこともなくなり、陽気なユーロビート自体、廃れていった。
 それでも『Help Me』は私にとって大切な一曲、青春の旋律である。あの頃の私は体を揺らし、「Help Me」と明るく口ずさみながら、誰にも言えない「助けて」を吐き出していた。
 高校卒業後、かなちゃんは東京の大学に進学し、大学院を経て臨床心理士になった。彼女はいまもきっと、誰かの「Help Me」に手を差し伸べているのだと思う。