1. HOME
  2. コラム
  3. 鴻巣友季子の文学潮流
  4. 鴻巣友季子の文学潮流(第9回) 「孤独」の蔓延と、寂しんぼ時代の光

鴻巣友季子の文学潮流(第9回) 「孤独」の蔓延と、寂しんぼ時代の光

©GettyImages

近現代に生まれた疫病?

 若竹千佐子の『おらおらでひとりいぐも』(河出文庫)で、独居老人桃子さんは孤独についてこうつぶやいた。「(孤独など)もう十分に飼いならし、自在に操れると自負もしているのだった。〈中略〉ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる」。

 意のままにならないこの「孤独」とはなんなのか? ちなみに、私は17年前に、「六万時間の孤独」(『全身翻訳家』所収)というエッセイでこう書いたことがあった。

「孤独という”状態”は宇宙が生まれたときからあるものでも、寂しいという”気持ち”はヒトが発明したものだろう。人間はなにか心の収まりがつかないとか、精神に漠たる空白を感じたとき、気持ちが剝きだしになってスースーしたとき、そこに”寂しい”という語を絆創膏のようにあてて守ってきたんじゃないだろうか」

 翻訳するときは独りの状態ではあるが、それを寂しいとは感じていない、独り居と孤独感は違うものだということを書いたのだった。

 さて、今月はフェイ・バウンド・アルバーティ『私たちはいつから「孤独」になったのか』(神崎朗子訳、みすず書房)をまず紹介したい。著者は冒頭で「孤独のエピデミック」という語句を用いて、ロンリネス(loneliness)という感情体験とその拡散を「疫病」に喩えている。

 18世紀より前には、独りの状態を表すソリチュード(solitude)がよく使われた。ロンリー(lonely)やそこから派生したワンリネス(oneliness)という語もあったが、「自分以外に誰もいないことを示すもので、それに伴う欠乏感を表すものではなかった」とまとめられている。ロンリネス(孤独感)は近代化が生みだした感情群であり、ある種の病だというのだ。

 このソリチュードとロンリネスを明確に結びつけたのが、20世紀前葉に『自分ひとりの部屋』などの著作を書いたヴァージニア・ウルフだと言う。孤独は自らに欠けているものがあると自覚することだから、創造のプロセスに欠かせないものだとした。ただし苦痛を伴うし、慎重に味わわねばならない、と。

「寂しい」という用法へ推移

 ためしに日本語の「孤独」の意味も調べてみよう。『日本国語大辞典』(小学館)の第一義はこうだ。
 (1)みなしごと、年とって子どものないひとりもの。また、身寄りのない者。ひとりぼっち。ひとりびと。

 独りの状態を表すこの用法は「続日本紀」(和銅4年、711年)にすでに見られる。
「鰥寡(かんか)孤独」といえば、配偶者に先立たれた夫・妻(鰥寡)、父のいない16歳以下の子(孤)、子のいない61歳以上の者(独)を指した。国家の法的救済の対象とみなされる家族構成のことだという(Wikipediaより)。

 なるほど、イギリスで2018年に導入され2021年に廃止された「孤独問題担当大臣」や、日本の内閣官房の「孤独・孤立対策担当室」も、機能的にはこの意味に近い。では、第二語義。
 (2)(形動)精神的なよりどころとなる人、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。また、そのようなさま。

 これが現代日本では優勢の使い方だろう。最初期の用例として出てくるのは、19世紀末の小栗風葉「恋慕ながし」(1898年)で、だいぶ新しい使い方なのか。日本語の「孤独」も元々は感情を表す語ではなかったということだろう。「寂しい」という意味が主流になっていくのは、明治中期以降のようだ。

小説によって耕されてきた感情

 こうして見ると、日本語の「孤独」の語義の変遷とその時期は、英語でのそれと一致していることがわかる。明治初期に欧米のlonelinessという概念に「孤独」とい翻訳語を充てたことにより、「孤独」は寂しさをまとうことになったのではないか。

 これは言語学的に重要なだけではなく、ひとの感情史と文学史という面からも興味深い。じつは私にとって非常に気になるのは、孤独という感情体験の「発明・拡大」の時期と、18世紀ごろ台頭してきた小説という散文文芸の「興隆・発達」の時期が重なっていることだ。両者には深い関係があるのだろう。

 小説という西洋発の散文文芸が得意とするのは、ひとの生活言語に最も近くて親しみやすい言葉でもって、日常のよしなしごとを写しとり、ささやかな勧興や細かい心の襞なんかを表現することだ。大事より小事。西洋の韻文詩の大きな役割であった叙事から抒情へと、文字文芸の重心が移ってきたとも言える。

 事を叙することから情を抒むことへ。小説は”感情の文芸”と言ってもいい。小説を書き・読むことで、西洋世界(とそれに追随してきた文化圏)は情緒を耕してきた部分があるのではないか。小説はひとを高度に感情的動物にすることに寄与したのかもしれない(というのは、ここ何年か私が考えていること)。

 19世紀以降の”寂しさの時代”に登場してくるのが、かけがえのない伴侶を意味する「ソウルメイト」という語だ。アルバーティによれば、初めてこの語を使った文学者は前期ロマン派詩人のコールリッジ。

 同世紀のソウルメイト小説の代表と言えば、『嵐が丘』を挙げるべきだろう。同作にはlonelinessという語は1回しか使われていないのだが、精神の伴侶を失った激烈な「欠乏感」が全編を覆っている。ヒロインのキャサリンはソウルメイトのヒースクリフと自分が生き延びるために資産家と結婚するが、ふたりは生涯この欠乏感に苦しみ抜く。

 キャサリンが、自分とヒースクリフはひとつだと言い募り、「わたしとヒースクリフの魂は同じもの」だと主張する一連の独白は有名だ。ソウルメイトはプラトン的な魂の片割れの思想をルーツとしているものの、それを失った絶望や圧倒的な孤独感が異なるとアルバーティは言う。

 なぜ人間はこんなに寂しがりになったのだろう?

宗教の衰退と個人主義の台頭

 アルバーティの分析では、一つには、宗教の力と支えが衰退したこと。近代より前には、神とより深くつながるためには独りでいることがむしろ大事だった。 

 二つには、近代(とくに19世紀)における個人主義の台頭。自立し自律した自由な人こそが理想とされる思想が行き渡った。その結果、個々人が隔絶することになり(チャールズ・テイラーのいう「緩衝化された自己」)、孤立感をもつ人びとが出てきた。

 三つに、これら自由主義を支える工業化と経済機構が競争主義を導入したこと。能力成果社会(メリトクラシー)の弊害については、この連載でも何度か触れている。

 四つに、そうした自由主義経済のもとで増進された物質主義がある。物の所有と金銭価値の張り合いが加速し、SNS時代に入ると、他人の物質的豊かさや交友関係のひけらかしを見て落ちこむ新しい「うつ」や、何かを見逃して取り残されているのではないかという「FOMO(Fear of Missing Out)」なる恐怖症が現れて、疎外感、孤独感はむしろいや増した。
 これらの感情群の醸成と小説の発達は相互関係をもつのではないかと私は思っている。ロンリネスを感じる精神土壌が生まれたから小説が勃興し発展したと考えるのが順当だろうが、逆に、小説という”感情の文芸”が私たちの「寂しがり」を育んだ面はないだろうか。この件については追々書いていこうと思う。

ロンリネスを寄せつけないヒロイン

 さて、この寂しんぼ時代に現れた無敵のヒロインが、綿矢りさ『パッキパキ北京』(集英社)の菖蒲(36歳)である。

 綿矢りさといえば、『蹴りたい背中』(河出文庫)冒頭の「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつける〈後略〉」というリリカルな名文はよく知られているだろう。

 それから20年近くを経た『パッキパキ北京』の主人公は、ほとんど”ロンリネス・プルーフ”とでも言えそうな孤独耐性を持っており、単身赴任中の夫(56歳)には、放っておいても「寂しい」などと言わないので楽だと褒められたぐらいだ。

 ロンリネスを助長するはずの物質社会では、むしろ水を得た魚。夫の金で北京の美味いものを食べまくり、買い物をしまくり、現地の若い子たちと遊びまくる。友人知人は目的別に分けて付き合い、「世間が私に適合すべき」という考えなので、ソウルメイトという概念とは縁がなさそうだ。

 とはいえ、北京で旧正月を迎える場面には、独り居を愉しむウルフばりの趣きがある。夫が寝てしまった夜の零時すぎに「一人ぼっちで暗くて静か」なバルコニーに出ると、「他国で迎える正月って、こんなにさびしいんだな。でも、良いもんだ。/他国の正月って、なんとも言えず他人ごと。〈中略〉でもその距離の遠さが良い」と言う。

 明るく温かい家で年越し&新年を祝っている中国人の家族たちと、バルコニーの闇に独り佇む自分の際やかなコントラストを感じながら、彼女は「清々しいさびしさを存分に味わ」うのだった。 

 最終的に菖蒲はボーイシャネルの最新のバッグを見せつけたり、高級住宅地に住んだりして手に入れる「勝利」などというのは「コスパ」が悪くて興味を持てなくなる。頭の中の想像でつねに相手に勝ってしまう某中国文学の主人公を知ったからだ。

「この競争社会で、マテリアルワールドで、何も手にしていないのに勝利を手に入れられるスーパー錬金術の使い手を、称賛せずにいられる?」と。

 脳内勝利法で暴走しぬくヒロインに、「じつは彼女は心の奥に深い孤独を抱えているのだ」などと言う気にはならない。小説という文芸を肥え太らせてきたロマン派的な業や抒情の湿りなど寄せつけないパッキパキの女性主人公を、いまの時代に送りこんできた作者のセンスにひたすらしびれた。

ソリチュードの耀き

 最後にこれまた暴走小説と言えそうな、小泉綾子『無敵の犬の夜』(河出書房新社)を。幼いころ母の不注意で指をたんすの扉に挟み、左手の小指と、薬指の中ごろまでを失った中学生男子「界」が語り手だ。シングルマザーの母に半ば見捨てられ、やさしい祖母に育てられているが、指のことでいつも引け目を感じている。

 理科教師に陰湿ないじめに遭った後、「バリイケとる」高校生の橘がこの教師をボコボコにしてくれて、彼に心酔。彼とつるむようになるが、橘はじきに東京へ行って女をつくる。これが、人気ラッパーの恋人らしい。

 界は心に穴が空いたような寂しさと、女への嫉妬と、女に入れ込んでいる橘への幻滅とを感じる。やがて橘は追いつめられ、界はごたごたを一気に解決するため、ラッパーを殺しに東京へ乗りこむが……。

 界も脳内勝利の人だ。いつも「ゴミを消すだけ」「こいつチョロくね?」「いけるくね?」と頭の中で考えている。とはいえ、それがまやかしだということも重々わかっているのだ。だからこそ、「瀕死の狂暴な獣」のような手負いの身体を引きずりながら霧雨の森で独り夜明けを迎える姿は、なかなかに神々しい。

「太陽がのぼれば今より状況はマシになる。〈中略〉そしたら今度こそ俺の勝ち。この森を抜ければ、今よりもっと強くなれる」と。
 ロンリネスの病から解き放たれたソリチュードの一瞬の耀きがとらえられている。