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奇怪な幻想世界を支えるSF的思考 酉島伝法さん「奏で手のヌフレツン」インタビュー

酉島伝法さん=山崎聡撮影

だんじりで映画「スピード」をやってみたら

――『奏で手のヌフレツン』は2014年に発表された同名の短編(『書き下ろし日本SFコレクション NOVA+ バベル』所収)を長編化したものです。

 短編版を発表した直後に、担当さんからお話をいただきました。『皆勤の徒』のような連作短編の形ではなく、短編版をもとにした長編にしませんか、と。僕としても思い入れのある作品だったので快諾したんです。だから企画のスタートは10年近く前なんですよね。
『宿借りの星』という長編と並行して書き進めていたのですが、まったく異なる二つの世界を同時に書いていくのは難しく、先に『宿借りの星』を完成させることになりました。それが終わると『オクトローグ 酉島伝法作品集成』をまとめることになり、その次に『るん(笑)』、『旅書簡集 ゆきあってしあさって』と続いて……その間も時間が出来れば『ヌフレツン』に戻っていたのですが、やっとこの1、2年で専念して完成させられた、という経緯です。

――酉島さんの作品では特殊な世界が描かれることが多いですね。今回は54人の聖(ひじり)が太陽を背負い、108本の足で球面世界を歩き続けているという設定に驚かされます。

 きっかけになったのは、作家の牧野修さんとの雑談でした。牧野さんが「だんじりで『スピード』をやったら面白いと思うねん」というような話をされたんですよ。止まると爆発するから、だんじりを走らせ続けないといけない(笑)。それがめちゃくちゃ面白くて、それは書いてみたいです、と思わず口にしたら、書いてくれる? と牧野さんも仰ってくれたんですが、いざ構想を練りだすと、どんどんだんじり要素がなくなって全然違うものになってしまったんですね。

――だんじりが出発点だったとは! それが太陽になったのはなぜなのですか。

 人が曳き続けるだんじりの話を、補給の問題などを交えて考えていたんですが、それだけでは物足りなくなってきて、これ自体が生物だったなら? しかも太陽であったなら? さらに脚が人間であったなら? と段階的に発想が浮かんでいったんですね。でも、大地を往復するだけでは様にならない、太陽なんだから、いっそ昔の天球図みたいに凹面世界をぐるぐる巡ったらどうか、それなら月や星も生物として歩きまわらなければ、となったんです。

――太陽や月がすぐそこに存在している、という距離感が独特ですよね。稲垣足穂のファンタジーを連想しました。

 その感覚に近いですね。坂口尚さんの『紀元ギルシア』というSFマンガも頭にあったと思います。古代ギリシャ世界を遠未来化したような世界で、天翔る機械の馬が太陽を引っ張って巡っているんですね。あるとき主人公が初めて太陽の運行を任されるんですが、馬をうまく操ることができず、その日は半日になってしまうんです。太陽が具体的な物体として身近に存在するというイメージが鮮烈で、作中の造語と共に影響を受けました。

『奏で手のヌフレツン』(河出書房新社)

川辺で生まれた過酷なお仕事小説

――物語は〈解き手〉として働くジラァンゼと、その子で〈奏で手〉として生きることを選んだヌフレツンがそれぞれの仕事に打ち込み、家族や友人との関係を築いていく姿が生き生きと描かれています。

 デビュー作の頃から日常を描くことにはこだわっているのですが、今お話ししたような異世界の話を、連続テレビ小説くらいの丁寧さで数世代に亘って描いたらどうなるだろうと。『ヌフレツン』の短編版でも数世代の家族は出てくるのですが、長さの関係でほぼヌフレツンに焦点を絞っていました。今回は短編版で描けなかった親たちの物語をさらに掘り下げて、我々とはかけ離れた暮らしを送っている人々の存在を肌で感じてもらえるように心がけました。

――ジラァンゼが従事しているのは、繋業(けごう)解き工房での煩悩蟹の解体作業。指を切断されることもある、危険で過酷な仕事です。

 変わった仕事であったり過酷な仕事を描いた小説には、昔から惹かれていました。ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』というルポタージュ小説には、パリのレストランの地獄の底のような厨房で働いた経験が書かれています。床に落ちた食べ物をそのまま皿にのせてお客に出すみたいな(笑)。アプトン・シンクレアの『ジャングル』の食肉工場における過酷な労働であるとか、キース・ロバーツの『パヴァーヌ』という歴史改変SFの、過酷でありながらも魅力的な腕木(うでぎ)通信の信号手の仕事であるとか。自分が勤めていたときはだいたい辛くて、しばしば宇宙人に働かされているような不条理感に囚われていたので、労働とは何なのかという興味が強かったんですが、いま振り返るとそういう本を好んだのは、痛みを痛みで忘れようとするような要素もあったのかもしれないです。

――蟹がここまでフィーチャーされたのはなぜですか?

 どうしてなんでしょうね(笑)。蟹という字に「解」が含まれているのが、単純に面白かったのかもしれません。それと、7年ほど前から小説を川辺で書くようになったんですね。家の中では集中できないし、喫茶店なども落ち着かなくて、試しに川辺で書いてみたらすごく捗って。この小説も主に川辺で書いたのですが、執筆中に足元に蟹がわさわさ現れて、その度に姿や動きに見惚れていたんです。『宿借りの星』にも甲殻類がよく出てきますが、どちらの作品も執筆環境が影響していたのかもしれません。

――ジラァンゼたちが暮らしているのは、苦しめば苦しむほど功徳を積んだことになると信じられる歪んだ価値観の世界。しかしジラァンゼはそのことに疑問を抱いていません。

 我々も、いろんな奇妙な慣習に無自覚に従っているというのがひとつと、異質な日常を、そこに生きる人の視点で描きたいという気持ちが強かったので、主人公が世界のありように疑問を抱いて秘密を暴く、という話にしてしまうと、いわゆる英雄譚となって、視点がずれてしまうと考えたんです。それに、この作品の場合は、少し離れたところに謎を探っている人物がいる、くらいの距離感の方がリアリティが増して面白くなるだろうと。

酉島伝法さん=福森クニヒロ撮影

外国語の文章を読むような「分からなさ」を目指して

――酉島作品といえば造語を多用した文章がトレードマーク。今回も陽接車(ようせつぐるま)、央響塔(おうきょうとう)、惨斬(ざんぎり)など奇怪な造語が多々登場して、見たことのない世界を作り上げています。

 僕の小説における造語は、映画でいう美術や特殊メイクみたいなものだと思います。造語がいまひとつだと筆が進まないので、何度も考え直すのですが、ぴたっとはまったとたんに世界が広がったり、物語が転がりだしたりするんですね。見慣れない言葉ばかりで分かりにくいとも言われるんですが、それは自分でも意図していたことで、『皆勤の徒』の頃は、「読めない小説を書こう」と半ば思っていました。英語の文章を読んでいてよく分からなくとも、くり返し読むうちにすっと意味が入ってくることがありますよね。あるいは詩を読んでいて、急に焦点が合うような。そういった読書の面白さを、日本語の小説でも再現できないかと考えていたんです。最近の作品では、一見読めなさそうなのにすらすら読める、という文体を目指すようになりましたが。

――堕務者(おちむしゃ)、聖人管門(しょうにんかんもん)など、当て字も独特の効果をあげていますね。

 聖人管門は、ちょっと迷ったんです(笑)。駄洒落になりすぎると白けてしまうので、バランスが難しいんですよね。造語を作るときには、漢字の形や音や意味を様々に組み合わせるのですが、現実世界と僅かでも繋がらせると、異質でありながらも馴染みやすくなるんです。

――作品ごとに造語の傾向も変えているようですが、『ヌフレツン』における造語のルールとは。

 あまり気づかれないのですが、他の作品と異なる仕掛けとしては、漢字の偏と旁(つくり)の組み合わせです。たとえばこの世界には、太陽に捧げる阜易楽(ふいがく)という音楽が出てきますが、「阜(こざと)」と「易」を組み合わせると太陽の「陽」になる。月に星が呑まれると異様に臭くなる場面が出てきますが、月偏に星を書くと腥(なまぐさ)いという漢字になる。他にもあるのですが、そうした漢字の関係性じたいが世界の仕組みにつながっていたりします。

グロテスクなものに対する相反する感情

――第2部では世界に未曾有の危機が訪れ、聖なる音楽の演奏家であるヌフレツンたちがそれに立ち向かっていく。クライマックスの壮大なビジョンを堪能しました。

 映画でスペクタクルなクライマックス場面になると、映像としては迫力があるのに、予定調和で退屈に感じることが多くて。この作品ではそれを避けたくて、様々な要素が絡み合って大きなうねりになるような展開を心がけました。短編版を読んでいる方にも楽しんでもえるようなクライマックスになっていればいいのですが。

――一見すると異世界ファンタジーのような設定ですが、読んでいるうちにSF的仕掛けがあることが分かってきます。この部分は事前に決めていたのでしょうか。

『ヌフレツン』に関しては、最初から骨格となるSF設定をある程度決めて書いていました。ファンタジーとして読んでいただいても、SFとして読んでいただいても楽しめるように、その骨格に分厚く異世界の肉付けをしていった感じですね。もともと複数の読み方ができるように書くことが多いのですが、最初から決めることもあれば、よく分からないまま捏ね回しているうちに骨格が生じてくることもあります。

――奇怪な生物が多数登場する『皆勤の徒』といい、スピリチュアルな価値観の怖さを描いた『るん(笑)』といい、主人公が不気味なものに取り巻かれているという感覚は酉島SFに共通するものだと思います。ホラー方面へのご関心は?

 大好きですよ。考えてみれば子どもの頃から、手塚治虫の『どろろ』だとか楳図かずおの『猫目小僧』だとか、怖くてたまらないのに次々と読んでいました。高校生くらいからは、黒沢清やリンチやクローネンバーグが血肉になっていますね。でも、グロテスクなものが好きでしょう、と言われると、否定したくなってしまう。あまりグロテスクだと思っていないというか、得体のしれなさへの驚異や、どうなっているのかもっと知りたい、という衝動に近いような気がします。手塚治虫の『ブラック・ジャック』も怖がりながら、人体の中はこうなっているのか、という強い興味で読んでいました。自分の小説は、グロテスクと呼ばれるものを描きつつ、グロテスクさを解体していくようなところがあると思っています。

――なるほど、怪奇幻想の世界に限りなく接近しつつも、酉島作品がSFになるのはそのためですね。

 デビュー前は前衛や幻想系の小説を主に書いていたんですが、あるときそこにSF要素を取り入れたら、作品の完成度がぐんとあがって、自分にとってはSF要素が骨格として重要だったんだなと気づいたんです。でも、作品自体はどのジャンルとして読まれても嬉しいというか、読む人の読書傾向によって捉え方が変わるような作家になれればいいなと思っています。