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北沢陶さんの文体にまで影響を与えた萩尾望都さんの「ポーの一族」

萩尾望都『ポーの一族』(小学館文庫)

 高校生のときだった。当時少年マンガや青年マンガを読みあさっていた私に、ある日友人が熱のこもった口調でこう言ってきた。

「『ポーの一族』を読んで!」と。

 少女マンガは中学生のときにはほとんど読むのをやめてしまい、「花の24年組」という言葉も知らない。1970年代の少女マンガは、読んだことはなかった。でもそんなに薦めるのならと、本屋で早速購入した。

 衝撃を受けた。私が買った文庫版は「ポーの一族」という短編から始まっているのだが、最初のページに描かれた一面のバラ、そして主人公・エドガーのたたずまいは、高雅でありながらどこかこの世のものではない危うさを含んでいた。私がそれまで触れてこなかった種類の「美しさ」を、『ポーの一族』は教えてくれた。

『ポーの一族』は不老の存在・バンパネラであるふたりの少年、エドガーとアランの旅を主軸に描かれる。エドガーたちはもともと人間であったが、例外的に成人を迎える前にバンパネラとなり、子どもの姿のままでいる。そのため一カ所に長く留まることも、一部の例外を除いて人間と深く関わることもない。しかし彼らの異質な存在感は、ひとときでも関わりを持った人間に鮮烈な印象を残していく。エドガーとアランのまとう「人間世界から切り離された者」特有の妖しさ、酷薄さに私は惹きつけられた。

 優美な絵と、詩のように独特なリズムを持った台詞もまた、私を魅了した。

『ポーの一族』で描かれる線の繊細さは、少年マンガの力強い線に慣れていた自分にとって新鮮だった。エドガーとその妹メリーベル(バンパネラであるが、作中で灰となり消えてしまう)の巻き毛はその柔らかさまでもが伝わってくるようで、ドレスやケープの線一本一本に布地の質感が感じられる。この美しい線の織りなす絵をひとコマずつ眺めては、ほうとため息をつく時間は幸せだった。

 さらに作中の台詞も私を魅了した。独自の台詞回しだけではなく、吹き出しの分け方や「…」を差し挟むことによって生み出されるテンポは、読んでいて非常に心地良い。今改めて読み返してみると、バンパネラの台詞はより詩的に古風に、そして人間の台詞にはどこか生活感が漂っていることが分かる(ここまで書いて私はシェイクスピア『夏の夜の夢』で、妖精と人間とでは台詞の韻や言葉の使い方が明確に区別されていることを思い出した)。

『ポーの一族』の台詞のリズムや、バンパネラと人間の言葉の使い分けの例として、バンパネラの住む「ポーの村」に迷いこんだ青年、グレンスミス・ロングバート男爵と、彼の首筋から生気を吸いとるエドガーの会話を挙げる(吹き出しが分けられている箇所は別の「」で表わす)。

 

エドガー「ほら……こうやるだけでもわれわれに必要なあなたの生気(エネジィ)を吸いとることができる」「この指先から……」

グレンスミス「そうして……バラを枯らす!」「だが…光には弱いはずだ」

エドガー「鏡にも映らないニンニクと十字架に弱く」「棺桶を住みかとし……ですか?」

グレンスミス「そう聞きもし本でも…」「…ほんとにバンパネラなのか?」

エドガー「フ……」「そういう名で呼びたければどうぞ」「われわれは……ポーの一族」「では…おやすみ」「…どうぞ」

 

 同時期に発表された『トーマの心臓』もそうであるが、萩尾望都作品から得た「台詞のリズム」という概念は、私の小説にも影響を与えているのではないか……と書くと、恐れ多い気がする。しかし、『ポーの一族』の台詞に当時の私が夢中になったことは確かだし、今も読むたびに感銘を受けている。

 エドガーたちはたとえ愛しい者を失ったとしても、生きていかなければいけない孤独を抱えている。彼らにとって、「生」はときにつらいものなのだろう。けれども、『ポーの一族』を読んだ私の心の中には、今でもエドガーたちの「生きている時間」がしっかりと残っている。彼らに魅了された、作中の人間たちと同じように。