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「ソング&セルフ」書評 楽曲が生み出す「未解決の問い」

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2024年02月17日
ソング&セルフ 音楽と演奏をめぐって歌手が考えていること 著者:イアン・ボストリッジ 出版社:アルテスパブリッシング ジャンル:芸術・アート

ISBN: 9784865592887
発売⽇: 2024/01/25
サイズ: 20cm/204,10p

「ソング&セルフ」 [著]イアン・ボストリッジ

 当代きってのテノール歌手ボストリッジは、クラシック音楽界の才能豊かな著述家でもある。前著の『シューベルトの「冬の旅」』は文化史への周到な目配りといい、歌詞の細やかな分析といい、実にフレッシュな研究書であった。小ぶりな講義録である本書でも、音楽に「未解決なものや答えのないものと共存していく能力」を見出(みいだ)そうとする意志が貫かれている。
 そもそも演奏家とは、楽譜を忠実に再現するマシーンではない。一つの楽曲は歴史・政治・実存の絡みあった複雑な方程式であり、演奏家はそこに戦略的に介入して新たな問いを作りあげる。ゆえに「自然な歌い方というのは神話にすぎない」。音楽とは粘りづよい探究を経て、演奏家と聴衆の心身において「発明」されるものなのだ。
 本書は、音楽をアイデンティティの大胆な実験場として描き出す。例えば、シューマンの歌曲『女の愛と生涯』は、女が男に屈従するその家父長的な歌詞ゆえに悪名高い。しかし、歌の主人公が、女になりすましたシューマン自身だとしたらどうか。現に、彼は妻クララと深く同一化するあまり、ジェンダーの混乱やアイデンティティの不安を抱えていた。この曲の反動的な女らしさは、実は作曲家の偽装ではなかったか。
 あるいはラヴェルの『マダガスカル島民の歌』。ダンディなラヴェルには珍しく、この反植民地主義的な歌曲は、耳ざわりなまでの激しさを含む。植民地マダガスカルや黒人芸術に対するフランス人の入り組んだ感情の歴史を引き受けたとき、彼の音楽は異例の不協和音へと到(いた)ったのだ。
 音楽を思考し、音楽で思考すること――「死の必然性と恐怖」という難題に向かったベンジャミン・ブリテンの楽曲も含めて、それはこわばったアイデンティティを未解決の問いの集合に変える。芸術家は混乱や不協和、恐怖も引き受けて進むが、それは人生の発明とイコールなのである。
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Ian Bostridge 1964年生まれ。英テノール歌手でドイツ歌曲の名手。オックスフォード大で歴史学の博士号取得。