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「エドワード・サイード ある批評家の残響」中井亜佐子さんインタビュー 研究・批評通じパレスチナを発信した生涯

中井亜佐子さん=家老芳美撮影

アカデミズムと言論を行き来

――中井さんがエドワード・サイードに関心を持った経緯を教えてください。

 私は1990年代前半に大学院でジョゼフ・コンラッドという作家を研究していました。そこでサイードのコンラッド論を読んだのが最初でした。コンラッドはウクライナ出身のポーランド系でしたが、イギリスに帰化して英語作家となりました。そうした故国喪失的な経験が(パレスチナ系アメリカ人である)サイードに刺さったのかもしれません。

 サイードといえば、一般的には『オリエンタリズム』のイメージがあるかもしれませんが、私の場合はちょっと違って文学研究から入ったんです。コンラッドはベルギー領コンゴや当時イギリス植民地だった東南アジアについて書いていました。それでサイードの『オリエンタリズム』などの著作も読むようになりました。

――サイードは学者でありながら、メディアを通して一般向けにも積極的に発信していたそうですね。

 ジャーナリスティックな媒体でも、すべてを追い切れないくらいたくさん書いています。もちろん同時にアカデミックな論文も書いていました。私が初めて出合ったコンラッド論「コンラッドとニーチェ」は、非常にアカデミックな内容です。これは1970年代初頭にポーランドで初めてコンラッド学会が開催された時に、サイードが口頭発表した論文でした。

 一方、1967年の第3次中東戦争の頃から、パレスチナ問題に関わりはじめています。そこではコンラッドという英文学のテキストが、両者の架け橋にもなっているんです。ジャーナリスティックな媒体でパレスチナ問題について書いている時に、ふとコンラッドの話が出たりするんですね。アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーはアカデミックな言語学とジャーナリスティックな言論活動を区別していましたが、サイードの場合はその両者を行き来していたように思います。

――サイードにとって「批評」とはどういうものだったのでしょうか。

 それが本書を通して考えようとしたことでした。理論的に説明するために、「旅する理論」(『世界・テキスト・批評家』収録論考より)という論考を読解しました。サイードはジェルジュ・ルカーチ(ハンガリーの哲学者)を解釈しながら、「理論」と「批評意識」の関係を論じています。「理論」が学問の制度に吸収されてしまうと、それ自体が支配的なシステムと化してしまう。しかし、支配的なシステムの内部にすでに、それを批判し食い破るような「批評意識」が潜んでいるというんですね。つまり、現行のシステムが立ち行かなくなった時に、そこで革命を起こすことができる意識です。批評とは、私たち自身がもっている、システムを変えていくようなものの見方のことだと思います。

パレスチナ人国家に懐疑的に

――長年に渡ってパレスチナ問題について発信したサイードは、パレスチナはどのようにあるべきだと考えていたのでしょうか。

 『パレスチナ問題』(1979年)では、シオニズムを植民地主義として捉え、その根本原理が土地の収奪とパレスチナ人の排除であると繰り返し指摘しています。サイードのパレスチナ国家に対する主張は時代によって変わりますが、その時点ではパレスチナ人の民族自決が必要だと考えていました。

 ただ、パレスチナ人とは何かという問題意識もあったと思います。イギリスの委任統治領になる前はオスマン帝国の支配下だった。ナクバ(1948年のイスラエル建国によるパレスチナ人の排除と虐殺)以降は、イスラエルに残った人、現在占領されているヨルダン川西岸・ガザ地区にもとからいたか、難民として移住した人、外側の国に出ていった人がいる。いろいろな場所でバラバラになっている人たちを、パレスチナ人として新たに作り直すことに対して、難しさも感じていたのでしょう。

 晩年はパレスチナとイスラエルを領土で分けて、パレスチナ人国家を作ることに対して非常に懐疑的になります。一国家を二つの民族が共有する「二民族国家(バイ・ナショナル・ステート)」のビジョンをはっきりと打ち出していました。文学理論の側から1980年代から90年代の著作を読んでいると、表立っては言わなくともそうした新たな国家観のビジョンが表れてきていることがわかります。

――サイードは1970年代後半から1990年代初頭まで、政治にもかかわっていたのですね。

 パレスチナ民族評議会(PNC)の議員をしていました。1991年に白血病を患ったこともあり、政治の表舞台からは引退することになるのですが。当時、パレスチナ解放機構(PLO)議長だったヤーセル・アラファートとも、かなり親しくしていました。しかし(イスラエルとPLOによる)オスロ合意(1993年)を批判し、アラファートと決裂することになります。

 アラファートがノーベル平和賞を受賞するなど、世の中は祝福ムードでしたが、サイードは領土分割をしてかつ国境をイスラエルが管理することを批判しました。パレスチナ人を封鎖して閉じ込めておくための合意にすぎないと考えていた。今、本当にそのような状態になっていますが、それを当時から予見していたんですね。

写真から見抜くパレスチナの現実

――本書では写真集『パレスチナとは何か』(1986年)に関する考察をしていました。これはどういう本なのでしょう。

 当初、サイードがICQP(パレスチナ問題に関する国際会議)の相談役として国連にかかわっていた時に、ジュネーブの会議場のエントランス・ホールで、写真家ジャン・モアが撮影したパレスチナ人の写真を展示することを提案したそうです。でも国連側から「写真に地名以外のテキストを入れたらダメ」と言われたようで、サイードはそれに対抗して写真にテキストをつけた本を出版することになったんです。

――中井さんのエッセイではそのテキストに着目しています。例えば、1979年にガザで撮影された写真には、難民が労働するナス農園で梱包作業を行う人々が映し出されていますが、そこでサイードはまず人々よりもナスに着目しました。

 サイードは写真そのものより先に、幼少期に食べて美味しかったというパレスチナ産のナスの話を語ります。幼少期を過ごした場所で育った野菜が、いまやイスラエルの輸出会社によって、ヨーロッパの市場に売られていくことに思考を巡らせる。ここでははっきりと言っていませんが、難民による農作業は疎外労働であること、パレスチナの現実はイスラエルによる植民地支配であることを示唆しています。

 サイードは労働者階級に関心がないと批判されることがありますが、『パレスチナとは何か』では、ほかにもパレスチナの農業労働者の写真を取り上げているんですね。これらの写真を見た限りでは、パレスチナ人なのかもよくわかりません。昔から同じように農業をしていた人がいたのだろうと思わせます。サイード自身は「悠久のオリエント」の絵のように見えると書いています。そしてこの人たちの労働はイスラエルのための労働であり、収穫された作物はイスラエル産として輸出されることを指摘しています。なにげない写真から、そこまで見抜く想像力はすごいなと思います。

――また、1984年に撮影された年配のパレスチナ男性の写真を見ると、かけているメガネの片方のレンズに大きなヒビが入っていました。

 一見すると、パレスチナの農村部によくいそうな、クーフィーヤをかぶった気前のいいおじさんの写真です。微笑んでいてフレンドリーで滑稽にも見えて、まったく権力に対する批判的な意識なんてないように振舞っている。でもメガネが割れているので、どこか違和感を与えるんですね。撮影時に普通はかけないようなメガネをあえてかけている。これは「ただ単にあなたたちが思うようなパレスチナ人ではない」という意思表示をしているように読み取れるというんです。

もし今生きていたら…

――サイードがもし今生きていたら、どのような考えを持つでしょう。

 最晩年の頃はちょうどパレスチナで抗議運動・第2次インティファーダ(2000年)の時期でした。それに対してイスラエルは非常に激しい弾圧を行いました。サイードは当然、イスラエルを支援するアメリカを批判していました。

 また、9.11(アメリカ同時多発テロ)が起こり、その1か月後にアメリカはアフガニスタンに侵攻しました。サイードはメディアでそうしたアメリカの軍事行動を批判していました。そしてイラク戦争が始まった2003年にサイードは亡くなりました。今、「中東問題」といわれる問題を考える時にはどうしても、当時の、つまり2000年代初頭の状況を振り返ってしまいます。

 サイードは最晩年はすごく怒っていました。もし今生きていたとしても、ものすごく怒っているでしょう。パレスチナの事態は当時と比べてもさらに悪化している。そうなることを、オスロ合意を批判した時点から予見していたのかもしれません。