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最近話題になっている「VTuber」とは何なのか?――『VTuberの哲学』上

記事:春秋社

アニメキャラクターのようだが、フィクションのキャラクターではないVTuber
アニメキャラクターのようだが、フィクションのキャラクターではないVTuber

VTuber文化との出会い

 ある日、いつものようにパソコンでYouTubeをつけた私の目の前に、とある動画がお勧めされた。「国民的RPG」の代表格である『ドラゴンクエスト』が発売されてから35年の月日が流れたとのことで、35周年記念特番が放送されていたのだ。しかもそこでは複数の「公式ミラー配信」(他の放送で流れている動画を同時視聴すること)がお勧めされていて、私はいくつかのミラー配信を同時に観ることにした(いわゆる「複窓」である)。

 そのとき、VTuberグループ「ホロライブ」の三期生である兎田(うさだ)ぺこらさんのチャンネルで行われている公式ミラー配信が目についた。その配信では、兎田ぺこらさんだけでなく、同期の白銀(しろがね)ノエルさんもコラボ相手として参加していた。公式ミラー配信が終わったあとも白銀ノエルさんのことが気になっていた私は、YouTubeで彼女の名前を検索し、彼女のとある「歌枠」(適宜雑談をはさみながらさまざまな楽曲を歌っていくライブ配信の1ジャンル)を観ることにした。

 ――衝撃的なほどに自由奔放な歌い方。お祭りのように盛り上がるチャット欄。ぐんぐん伸びるチャンネル登録者数。そして、歌に合わせて楽しげに揺れる銀色の髪。

 それが私の「VTuber文化」との出会いだった。私の人生の中に、「VTuber」という存在が突如として入り込んできた瞬間だった。
 
 それから私がVTuberを視聴する習慣を身につけるまで、さほど時間はかからなかった。ライブ配信がやっていたら視聴する。リアタイ(ライブ配信をリアルタイムで視聴すること)ができなければアーカイブを追う。コラボがあれば、コラボ相手について調べてみる。私は名実ともに「リスナー」になっていた。VTuberによるゲーム実況や歌枠、雑談、企画ものの動画を観ることが習慣になっていた。「クリエイター」としての、そして「エンターテイナー」としてのVTuberという存在に、私は尊敬の念すら抱いていた。

「VTuber」とはどういう存在なのか?

 だが、一つ困ったことがあった。家族や友人からの「VTuberってどういうもの?」という質問に、私自身、ずっと明確な答えを出せずにいたのだ。

 まず、「VTuberはアニメか何かのキャラなの?」という質問には明確に「否」と答えられる。確かにVTuberは、見た目はアニメキャラクターのような姿をしている。だがフィクションのキャラクターではない。彼ら、彼女らは台本に合わせて演技をしているわけではないからである。VTuberは演技されているのではなく、むしろ生きられている。VTuberはまず第一に、人格的な存在者である。

 だが、このように説明すると、今度は次のような質問が飛んでくる。「じゃあ、VTuberは現実の人間がアバターを仮面のように身にまとっているだけの存在なの?」というものだ。これに対しても、私は明確に「否」と答えたかった。確かに、近年は「顔出しナシで配信ができる」ということを売りにするようなライブ配信のアプリが多くのユーザーに利用されているし、VTuber事務所がオーディションを開催している事例を見ても、「まず人間がいて、その次にその人がキャラクター(の姿)を身にまとう」という説明は、一応理にかなっているように思われる。だが、〈VTuberとは結局「中の人」(VTuberのCGモデルをモーションキャプチャーで動かし、実際に喋ったりゲームをしたりする人物)とイコールの存在なのだ〉という判断は、どうしても受け入れることができなかった。そうした理解は、VTuberを鑑賞している私たち鑑賞者の重要な直観を捨ててしまっているような気がした。

 最も簡単そうな解答は、「VTuberとはバーチャルな存在である」というものである。VTuberが虚構の存在でもなく、かと言って現実世界の「中の人」からも区別される存在であるならば、第三の領域のようなもの(バーチャル世界)を想定して、その中にVTuberはいると理解するのが、一番手っ取り早いように思われる。

 だが、今度は別の問題が浮上してしまう。それはもちろん、「バーチャルとは何か?」という問いである。「VTuberはバーチャルな存在である」と言ったところで、問いの所在地を少しずらすことにしかならないのである。
 
 それでは、私たちは「VTuber」という存在をどのように理解すれば良いのだろうか?

 もちろん、単に「VTuber文化」を楽しむだけであれば――すなわち、VTuberによるゲーム実況を観たり、VTuberの歌を聴いたり、VTuberのトークをラジオのように楽しんだりするだけであれば――こうした問いに向き合うことは必要ないのかもしれない。VTuber文化においては日夜膨大な数のコンテンツが共有され続けているので、推しの配信動画を追いかけていくだけでも大変な労力を伴うからである。

「VTuberを哲学する」という仕事

 だが、「VTuber文化」が急速に拡大している今日において、「VTuberとはどのような存在なのか?」という問いに答えることは重要な仕事であるように思われる。なぜなら、VTuber文化にあまり親しんでいない人は、VTuberのことを拙速に「虚構のキャラのようなもの」、ないし「中の人が絵をかぶっているようなもの」というふうに理解してしまう傾向にあるからである。だが、こうした説明はVTuberの在り様をおそらく適切に捉えることができていない。VTuber文化は、こうした理解によっては適切に記述することができないのである。

 それでは、私たちはVTuberをどのように理解すれば良いのだろうか。私の手元にあるのは、ただ一つ、「哲学」という武器である。哲学という思考の武器をもって、VTuberという存在を理解する旅が、その日から始まったのである。

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