角野栄子
- 代表作
- 『魔女の宅急便』ほか
この頃子供の声が聞こえてこない。外で出会うこともあまりない。子供の生の声が聞きたくなって、「お話の会」を始めた。小学生を中心にたくさん来てくれる。用意した部屋は小さくて、押し合いへし合い、息遣いまで聞こえてくる。私は自作の童話を初めから終わりまで読む。原則、絵は見せないことにしてる。私の中から出てくる言葉の音とリズムで聞いてもらいたいからだ。その時の部屋の空気が面白い。空気がきゅっと固まっているように感じる時は、聞き手は夢中の真っ只中。でも空気が微妙にだらーんと感じる時がある。そんな時、読み終わってから聞いてみる。「どお?」すぐさま返事、「退屈!」「ふーん?」と遠慮会釈もない。すやすやおねんねの子もいる。こう言う声を聞けるなんて、なんていい時間なんだろう。子供たちの自由な気持ちがとっても嬉しい。言葉には意味があるけど、同じように音も大事。その響きを聞きながら、お話の世界からそれぞれが自由に想像し、そこから生まれてきた自分の言葉で、令和の世を生きていく自分を創造してほしい。
夢枕獏
- 代表作
- 『陰陽師』シリーズ ほか
我々は言葉の森に住む生きものだ▼そしてひとつずつの言葉は、神を宿すための御社(みやしろ)である。さらに言えば、脳というものは、その本能として物語を作らずにはいられないという性質を持っている。進化の過程でそのようにできあがってしまったのである。たとえば古代、人類の祖となる猿人が森の中を和草(にこぐさ)を踏んで歩いている。すると背後で物音がする。その時脳は、これは背後の藪の中で、肉食獣が自分をねらって今まさに飛びかかろうとしているのではないか、という物語を作る。そういう物語を作ることのできた脳が、生きのびるチャンスを得ることができたのである▼天に稲妻がひらめき、雷鳴が轟く。これを我々の祖先は、天の神が怒っているのだという物語、あるいは神話にして自然を絵解きしてきた。そういう行為の無限の積み重ねが、今、ハヤブサ2を二億八千万キロ離れた小天体にたどりつかせたのである▼待ち合わせの相手が約束の場所に来ない時、待つ者は、何故相手がやってこないのかという物語を、脳の中で作り続けている▼たとえば、災害などの不条理なできごとで不幸に押し潰されそうになっている人がいる。その人が、今、どのような思いでいるかという物語を我々はつくることができるからこそ、人の世はそれでもなんとか機能してゆくのではないか▼新しい時代に、令徳ある新しい物語が綴られんことを、物語作家として切に願う。
今野敏
- 代表作
- 『ST 警視庁科学特捜班』シリーズ ほか
私がまだ少年の頃、明治、大正、昭和の三時代を生きた人たちがけっこういた。彼らは概してとても頑固で恐ろしかった。昭和、平成、令和の三時代を生きることになった私はどうだろう。果たして彼らのような気骨があるだろうか。どうもふにゃふにゃしているような気がしてならない。世の中を見るにつけ、それは私だけではないようだと感じる。大人が子供をちゃんと叱れなくなった。年寄が若者から軽視されるようになった。
明治生まれの老人は、行儀の悪い若者を平気で怒鳴りつけたものだ。今ではそんな光景は滅多に見られなくなった。昭和から平成へ、平和の時代が長く続いた。平和はもちろん大切で尊いものだ。誰にも命令されずに生きられるのは幸せだ。一方で、平和を実現し維持するために何が必要なのか、それを常に考えつづけなければならないだろう。それにはやはり気骨が必要なのだ。せめて作品の中では、子供をちゃんと叱り、若者を指導できる頑固な老人に、私はなりたいと思っている。
町田康
- 代表作
- 『告白』ほか
「歌は世につれ」と言う。そのときどきに流行する歌は世情を反映するということ。そしてそれに続いて「世は歌につれ」と言う。世の有り様もまた歌の影響を受ける、ということだろう。▼一人の人間が得る情報が格段に多くなり、精密な市場調査が行われるようになった今、かつてのような老若男女、深窓の令嬢もうどん屋の大将も均しく愛聴・愛唱する流行歌というのは生まれない。けれども各々趣向を凝らした歌をよく聞くと、そうして細分化されてはいるもののその奥底に共通した、「ひとつの気分」があるのを感じる。▼それが歌である以上、その正体を明らかにする必要は勿論ない。なぜなら歌は常にこの瞬間を歌うという特質を有しているからである。▼だから私たちはもうひとつの過去と未来に進むことができる心のエンジンを持つ必要がある。それはなにか。▼理屈で勝負するなら兎も角、和して同ぜず、大勢に抗って生きるのは苦しいことだ。けれども私たちはそれ自体に時間を胎んで因果の理を楽しくおもしろく読み/書くができる道具を身体のなかに持っている。
桜庭一樹
- 代表作
- 『私の男』ほか
「表現者には才能だけじゃたりない。勇気も必要だ」
新元号が発表されたころ、アメリカの映画『グリーンブック』を観ました。一九六〇年代、一人の黒人ピアニストが、人種差別の激しい南部でのコンサートツアーを決行したという実話を元に作られた映画です。なぜ彼はあえて危険な仕事を選んだのか、という問いに、バンド仲間が答えたのが、冒頭の台詞でした。
主人公は才能を武器に社会の欺瞞と闘ったのだ――。途方もない勇気だと、心が震えました。
さて、日本文学研究者の品田悦一先生によると、『万葉集』に記された令和というワードには、大宰府の長官大伴旅人による、「権力者の横暴が許せない。無念を読み取ってほしい」という意味が込められているそうです(『短歌研究』二〇一九年五月号)。
右傾化していく日本は、まるで再び〝戦前〟を迎えたかのようです。このような時代、小説家の役割とは何か? わたしはいま勇気をかき集めています。
道尾秀介
- 代表作
- 『カラスの親指』ほか
昔々のお話。▼その神社の鈴は、夜になるとこっそり賽銭を盗み、貯め込んでいた。いつか人に叩かれない暮らしがしたかったのだという。ある日、近くの寺の和尚がそれを知り、金を盗んでやろうと考えた。仕事を辞め、自由な暮らしがしたかったのだという。和尚は深夜の神社に忍び込み、鈴から金を奪って逃げた。鈴は怒り、地面を転がりながら追いかけた。ぬかるみを行けば、鈴は追いかけてこられないのではないか。和尚はそう考えて沼の縁へと走り込んだ。逃がしてなるものかと鈴は飛び上がり、和尚の坊主頭に噛みついた。鈴の重みで和尚の下半身は泥の中へと沈み込み、その手に握っていた金もまた、どこかへ沈んでいった。鈴と和尚はそのまま動くことができず、いつしか「令和」になったという。▼金も欲も、なくては生きていけない。しかし執着しすぎると痛い目に遭う。どちらも事実だからこそ諍いが生まれる。「令和」という二文字のように、何事もバランスが大事なのだろう。
西加奈子
- 代表作
- 『サラバ』ほか
SNSや名前を聞いても分からない何やかんやのスピードが速すぎて追いつけない。小説の「遅さ」を思い知るし、書きながら時々「なんやこの作業」と呟く。でも、その遅さに意味があるのだと思う。読者としても、書き手としても、小説があって良かったと思う夜がある。取るに足らないものや誰にも知られることのない感情、その存在を認めてくれるから。それは、速さが見落とすものだ。私は小説が好きだ。だって小説はただ存在している。必ず引き受けなければいけない命令ではないし、守らなければ罰せられる法律でもない。小説は読者に強制しないし、読者を矯正しない。作者が書きたいものを、気が遠くなるような時間をかけて書いて、そして差し出した、ただの一冊の本だ。平和をもたらすだろうか。誰かの命を救うだろうか。どちらの質問にも答えられない。もしかしたら否だ。でもやっぱり、小説があって良かったと思える夜がある限り、私は読みたいし、書きたい。