~漱石、鷗外、芥川~
日本を代表する文豪たちも東京の甘味が大好きだった──。文豪には甘党が多かったようで、いまでも味わえる老舗の味には文豪たちをも魅了した一品があります。写真では気難しそうに見える文豪たちも甘いものの前では別の顔を見せていたのかもしれません。文豪たちと和菓子との“甘い関係”をひもときます。
[文:岩本恵美/写真:北原千恵美]
友を偲ぶ思い出の味
“「行きませう。上野にしますか。芋坂へ行って團子を食いましょうか。先生あすこの團子を食ったことがありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます。」と例によって秩序のない駄辯を揮っているうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。
吾輩は又少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で團子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、又尾行する勇気もないからずっと略してその間休養せんければ成らん。”
(夏目漱石『吾輩は猫である』より)
夏目漱石『吾輩は猫である』の一節に登場するこの団子は、日暮里に本店を構える「羽二重団子」のお団子。店の歴史は古く、1819(文政2)年に芋坂の下(本店現在地)に初代が出した「藤の木茶屋」が始まりです。そこで供された団子がまるで羽二重のようにきめ細かいことから、その名がつき、商号にもなりました。
団子が平たくなっているのは、もともと神仏への供え物だった丸い団子を庶民が口にするのは恐れ多いと形を変えたといいます。平たくすることで焼き団子に火が通りやすくなるという理由もあったようです。
こし餡をまとった餡団子は、昔から甘さ控えめで、小豆そのものの風味が味わえます。一方、生醤油で「二度づけ、二度焼き」した焼団子は、米本来のほのかな甘さと生醤油のうまみがマッチした辛党にもおすすめの一品。日本近代美術の父、岡倉天心がこの焼団子を肴に酒を飲み、陶然として帰るのを忘れたという逸話も残っています。
羽二重団子は漱石の親友であった正岡子規の好物だったことでも知られ、子規が病床で綴った日記『仰臥漫録』にも「あん付き3本、焼き1本を 食う(これにつき悶着あり)」と記されています。
「漱石がお店に来ていたというはっきりとした記録は残っていませんが、作中に羽二重団子が出てくることからも度々召し上がる機会があったのではないでしょうか。子規が漱石に羽二重団子のことを教えたのかもしれません」と、七代目の澤野修一さんは想像をめぐらせます。
『吾輩は猫である』が「ホトトギス」に掲載され始めたのが、子規が亡くなった数年後の1905(明治38)年1月のこと。漱石は亡き親友を偲びながら、筆を進めていたのかもしれません。
[所在地]東京都荒川区東日暮里5-54-3
[アクセス]「日暮里」駅 徒歩5分
[TEL]03-3891-2924
[営業時間/定休日]
9:00〜17:00(L.O. 16:45)/年中無休
[公式サイト]https://habutae.jp/
医者ならではの食へのこだわり
軍医としても活躍し、ドイツで細菌学を学んで以来、極度の潔癖症となった森鷗外。野菜や果物も生では決して食べないという徹底ぶりで、食には相当なこだわりがあったといいます。
そんな鷗外も甘いものには目がなかったようで、鷗外の子どもたちのエッセイには鷗外が独自に編み出した「饅頭茶漬け」なるものを好んで食べていたという記述が残っているほどです。
“つめの白い清潔な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。”
(森茉利『貧乏サヴァラン』より)
“甘い物を御飯と一緒に食べるのが好きで、私などどう考えてもそんな事は出来ないが、お饅頭を御飯の上に乗せてお茶をかけて食べたりする。”
(小堀杏奴『晩年の父』より)
偏食ぎみの鷗外が饅頭茶漬けのほかに好んで食べた甘味のひとつが「甘味処 みつばち」の「元祖小倉アイス」でした。
「創業者である曽祖母の時代によくお店にいらしては、この小倉アイスを食べていたと聞いています。当時から銀の器に小倉アイスを1玉のせてお出ししていました」と四代目の嶋田有子さん。
1909(明治42)年に湯島で創業したお店の原点は氷業。小倉アイスは偶然の産物でした。冷夏でかき氷が売れず、残った小豆を桶に入れて塩をまいた氷の上で保存したところ、小豆のまわりが少し凍っていたので、食べてみたのだそうです。シャリシャリとして美味だったことから、購入したばかりのアイスクリーム製造機で混ぜてできあがったのが、小倉アイスでした。
原材料は当時から変わらず、小豆に砂糖、塩、水のみ。小豆の味を堪能できるアイスに仕上がっています。なめらかでやわらかい口当たりにもかかわらず、乳脂肪分がゼロというのもうれしいところ。
そんな体にやさしいところも、食にこだわった鷗外が気に入った理由のひとつといえそうです。
[所在地]東京都文京区湯島3-38-10
[アクセス]「湯島」駅 徒歩2分
[TEL]03-3831-3083
[営業時間/定休日]
売店:10:00~21:00/喫茶:10:30~20:00
(11月〜2月の平日はいずれも11:00から)
年中無休(臨時休業あり)
[公式サイト]https://www.mitsubachi-co.com/
精神を病んだ作家が見つけた口福
「将来に対する唯ぼんやりした不安」に耐えられず、35歳という若さで自らの命を絶った芥川龍之介。病的な危うさを感じさせる最晩年の作品からは、甘味とはほど遠いイメージですが、そんな芥川にも口福の一品がありました。「船橋屋」の「くず餅」です。
船橋屋は、1805(文化2)年に亀戸天神境内で創業。初代の勘助が千葉県・船橋の出身であったことに、その名は由来します。参拝客に向けて作った餅が評判となり、「くず餅」と名づけられ、江戸名物のひとつとなりました。
小麦澱粉を450日かけて乳酸発酵させて蒸し上げた乳白色のくず餅は、弾力のあるもっちりとした食感が楽しめます。沖縄・波照間産の黒糖を使用した黒みつは、船橋屋秘伝の味。風味豊かな黒みつに負けぬよう、きな粉は大豆を粗めに挽いて香ばしく仕上げています。
できたてを食べてもらいたいという思いから、保存料等の添加物は不使用。手間ひまを惜しまずに作られたくず餅、きな粉、黒みつの三位一体感が味わえるのは、わずか2日間です。その潔さには江戸の粋さえ感じられます。
船橋屋のくず餅と芥川との“蜜月”は、芥川が作家になるずっと前のこと。芥川は生後まもなくして母方の実家に引き取られ、少年時代を亀戸天神からもほど近い両国で過ごしました。
船橋屋広報の月岡紋萌(つきおか・あやめ)さんによると、「学生時代に芥川が体育の授業を抜け出してくず餅を食べに来ていたという云われが残っています」とのこと。
それからおよそ20年後、最晩年に新聞連載した随筆『本所両国』では、芥川が久々に船橋屋を訪れた際のことが記されています。
“僕等は「天神様」の外へ出た後、「船橋屋」の葛餅を食ふ相談をした。が、本所に疎遠になった僕には「船橋屋」も容易に見つからなかった。”
(芥川龍之介『本所両国』より)
この時、芥川は田舎者を装って町の人に店の場所を聞いたといいます。最晩年にもかかわらず、どこか楽しげで明るい雰囲気が漂うのは、まだ希望を感じられた少年時代に心が立ち返っていたからかもしれません。無事にくず餅にありつけた芥川は、刹那の口福をしみじみと噛み締めていたはずです。
[所在地]東京都江東区亀戸3-2-14
[アクセス]「亀戸」駅または「錦糸町」駅 徒歩10分
[TEL]03-3681-2784
[営業時間/定休日]
9:00~18:00(喫茶室は9:00~17:30、L.O.17:00)
年中無休
[公式サイト]https://www.funabashiya.co.jp/