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目眩を誘うコク深いエッセー 片岡義男「珈琲が呼ぶ」

 コーヒーの話で本を一冊。意外や、片岡義男が出す初の“珈琲(コーヒー)エッセー本”である。この著者なら並のコーヒー本ではないな、と読む前に確信した。
 喫茶店に入って「コーヒーでいいよ」と注文する人に思いを巡らす文章が、45編からなる本書の最初の方にある。問題は「で」だ。ビールでいいや。おまえでいいや。日常で多用される「で」に違和感を覚えたらどうするか。「コーヒーがいい」だ。「が」には「それを選んで特定した」気配がある。
 戦後すぐの東京で、男女がデートする場面を撮った映画。ふたりとも金がない。暗い顔の男は「みじめな自分が嫌だ。世の中はこんなだし」と嘆く。「戦争にいく前のあなたにはもっと夢があったわ。自分たちの店を持って、おいしいコーヒーを出したいという夢」。戦争は人の心を変える。政治的な言葉でなく、片岡義男は映画の台詞(せりふ)から読み手に伝える。
 音楽や映画に登場するコーヒーを描くシャープな短文も読ませる。その一方で、ザ・ビートルズ来日公演などに材をとった、長めのフィクション味を帯びた文章もコクがある。
 京都のスマート珈琲店は、幼い美空ひばりが太秦の撮影所に来ると必ずホットケーキを食べに来た。10歳の「僕」も母に連れられコーヒーを飲む。店を出ると「ひとりの少女が立って僕を見ていた」。少し年上に見える彼女が「去年の夏にもお見かけしたわね」と言う。私も少年と同じ軽い目眩(めまい)を覚えた。
 東京・世田谷の邪宗門という喫茶店でレコード会社の美人ディレクターと会う話も印象に残る。森茉莉さんが通いつめた店だ。美空ひばりの歌がよく流れた。美人ディレクターが「ひばりさんの歌ばかりかかるお店なのね」と言う。その後の展開が素晴らしく、夢のようだ。
 コーヒーの飲みかたと意味も価値も変わった日本と東京。しかし変化しない路地や店もある。珈琲を通し、経済と嗜好(しこう)と日本語を考察した贅沢(ぜいたく)な本だ。
     ◇
 光文社・1944円=5刷1万2千部。1月刊行。担当編集者は「この本で初めて片岡義男を知った20代や30代の読者が、著者の過去の作品を買い求める『逆流現象』が起きている」。=朝日新聞2018年11月24日掲載