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少女たちはどこへ消えたのか ミステリアスな失踪事件描いた怪奇幻想小説「ピクニック・アット・ハンギングロック」

文:朝宮運河

 ジョーン・リンジー『ピクニック・アット・ハンギングロック』(創元推理文庫)は、約半世紀前にオーストラリアで書かれた、不気味で美しい物語だ。

 1900年の聖バレンタインの日、オーストラリア奥地の寄宿学校アップルヤードの女生徒23人と2人の教師は、馬車に揺られてハンギングロックと呼ばれる岩山の麓までピクニックに出かけた。少女たちは明るい夏の日差しのなか、思い思いにピクニックを楽しむ。ところが集合時間を過ぎても、岩山を見るといって出かけた4人が帰ってこない。やがてそのうちのひとり、イーディスがヒステリー発作を起こして、雑木林から飛び出してくる。他の3人は「どこか上のほう」にいるのだ、と言ってハンギングロックを指さすイーディス。そのうえ、引率の数学教師グレタまでもが忽然と姿を消してしまった。愉快だったはずのピクニックは一転、暗澹たるムードに包まれてしまう。それが、アップルヤード学院の終わりの始まりだった……。

 この長編小説が今日なお読み継がれているのは、1975年製作の映画「ピクニックatハンギングロック」の影響が大きいだろう。「刑事ジョン・ブック/目撃者」の名匠ピーター・ウィアーが監督した映画版は、白いドレスに身を包んだ少女たちのはかなげな美しさと、さまざまに解釈できるミステリアスな結末によって、カルト映画のクラシックに数えられている。わが国でも1980年代に劇場公開され、多くのファンを獲得したのをご存じの方もあるだろう。

 このほどついに邦訳された原作小説を読んでみて、全編に漂う不穏なムードに驚かされた。意外なことにハンギングロックでの失踪事件は物語の導入部に過ぎず、それ以降は事件に関わった者たちの人生が「綴織のように」描かれてゆく。権威主義的でお金にうるさいアップルヤード学院長、不安定な立場にある最年少の生徒セアラ、岩山に向かう少女たちを最後に目撃したマイケル、そのお抱え助手で孤児院出身のアルバート。多彩な人間模様を描き分ける著者リンジーの筆力は確かなものだ。
 そんな人間模様を見下ろしているのが、はるかにそびえる奇岩ハンギングロックである。物語の端々にはいくつもの不吉で不条理なエピソードが織り込まれ、読者を静かな恐怖で包み込む。とりわけ印象的なのは、ピクニック場でくつろぐ一行の時計がすべて止まっているというエピソードだが、「訳者あとがき」によると著者リンジーの周囲では、こうしたことが実際よく起こったという。他にも不思議な現象に遭遇することが多かったようだ。覚めない悪夢のようでありながら(この物語は著者が夜ごと見た夢をもとに書かれている)、異様な生々しさを感じさせる作品の手触りは、著者のスピリチュアルな感性の産物なのかもしれない。

 超常的な出来事は一切起こらず、幽霊や殺人鬼も出てこない。それなのに妙に怪談めいていて、怖ろしい。『ピクニック・アット・ハンギングロック』はそんな小説である。ホラーと銘打たれてはいないが、これは立派なホラー小説、怪奇幻想小説だろう。少女たちはどこへ消えたのか。巨礫ハンギングロックとはいったい何なのか。作中に散りばめられた手がかりをもとに、思いを巡らせてみていただきたい。昨年話題になったドニ-・アイカーの山岳ノンフィクション『死に山』の読者にもおすすめである。