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抑留で失った言葉の再生 作品社・増子信一さん

 ジェノサイド(大量殺戮〈さつりく〉)のおそろしさは、「ひとりひとりの死がない」ことだという指摘から始まる石原吉郎の『望郷と海』。自身のシベリア抑留体験について綴(つづ)った断想集で、1字1字刻むように書かれた文章の濃密さに圧倒された。抑留体験の過酷さは無論のこと、その中で日常的な言葉を失い、帰国後その言葉を詩によって取り返す過程の苦闘が語られている。

 この本を起点に長谷川四郎『シベリヤ物語』(1952年)、内村剛介『生き急ぐ』(67年)、高杉一郎『極光のかげに』(50年)、という三つのシベリアの抑留体験記(長谷川は小説)を続けて読んでいった。そこでわかったのは、同じ体験でも「ひとりひとり」表現の仕方と捉え方がまったく異なるという当たり前のこと。風景画のように収容所生活を描く長谷川、強い意志をもって状況と対峙(たいじ)する内村、冷静かつ客観的に思索を巡らす高杉、そして言葉にならない言葉を懸命に絞り出す石原。

 4人がシベリアから帰国した年も異なる。一番早く帰国した高杉は49年、長谷川は50年、もっとも遅かった内村は56年。53年に帰国した石原が『望郷と海』を刊行したのは72年。19年という時間の重みがこの本には宿っている。

 石原吉郎は、77年、突然の死を迎える。生前、石原さんに会うことは叶(かな)わなかったが、その後、長谷川、高杉の両氏にはインタビューする機会に恵まれ、内村氏の謦咳(けいがい)に接することもできた。『望郷と海』は、本の世界に入る貴重な導きの糸だったのだと、改めて思う。=朝日新聞2019年4月24日掲載