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沖縄を語る、その前に 社会学者・打越正行さん寄稿

埋め立て工事が進む辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸=2019年5月13日、沖縄県名護市、朝日新聞社機から、小宮路勝撮影

彼・彼女らの人生や生活、葛藤ごと理解して

 私は広島で生まれ育ち、現在沖縄在住の社会学者である。10年以上にわたり、沖縄の暴走族、ヤンキーの若者への実地調査をすすめ、その記録を『ヤンキーと地元』(筑摩書房)という本にまとめた。この本を書いた目的は、沖縄社会を確かに生きている人びとのことを本土の人に伝えることだ。伝える言葉や視点を磨くために、私は一緒に遊んだり働いたり、時にはパシリとなって調査をすすめた。それによって、彼・彼女らの生活の厳しさ、その現実を懸命に生きていること、そこに沖縄戦や「復帰」を経験した沖縄固有の過酷さがあり、固有の生活の形が生まれることを書き連ねた。

 本のなかで、ヤンキーの若者の多くが働く地元建設会社の社長の話を紹介した。

 社長 (事務所の)近所(に住む人)は、先生が多いのよ。なんでかな、建築業を下にみてる人が多いのよ。(中略)沖縄は米軍基地と共存しないと、(恩納村にできた)大学院大学で白人、黒人、多いさーね。公務員は、自分たちは生活かかってないから、基地反対とか言うんだよ。小さい規模の建設業は、つぶれてるし、店を閉めたり、少なくなったりしてるのに、お構いなし(だよ)。

 本土の人は、この社長の言葉をどのように読み、そして考えるのだろうか。言葉だけを追うと、社長は米軍基地の建設を容認しているように読める。そしてこれを読んだ本土の人は、沖縄にもいろいろな立場の人がいるのだと考えるかもしれない。他方で、社長がそのように考えざるをえない状況に思いを巡らし、「本当は」基地など望んではいないのだと考えるかもしれない。

 ただし、私はどちらの読み方にも違和感が残る。それは沖縄の人びとの声や判断を、自身の考えを補完する形で読んでいるようにみえるからだ。そうではなく、自身の考えは脇に置いて、社長が基地と共存すると考えるにいたった過程を理解することが重要だと私は考える。それは共感ではなく、また必ずしも賛同する必要もない。具体的に社長の人生や生活からその言葉が導かれる過程を追うことだ。それにより、沖縄の人びとの行った判断がいかなるものであれ、それは地域社会のしがらみのなかで葛藤しながら、そして生活を懸命に守るために行った判断であることを感じて欲しい。

 社長の会社は沖縄の受注工事が減少し始めた1990年代に創業し現在に至る。2005年に構造計算書偽造問題が起きた時には、県内の工事が一斉に中断したため多くの会社が倒産した。彼の会社が倒産の危機に直面した時、本土の発注会社も税務署も容赦なく取り立てにきた。社長は仕事で使う車両を売りに出してなんとか倒産を免れた。そうして自らの家族だけでなく地元の100人近くの後輩たちの生活を守った。給料は決して高くないが、生活に困った従業員には前借りさせ、給料日に遅れず満額支給した(倒産の多い沖縄の建設業では給料の未払いは少なくない)。また従業員が刑務所に行っても出所後にすぐに誘い入れた。残業代はほとんど出ないが、そうやってやりくりしてきたのだ。そんな社長にとって、民間のアパート建設とは異なり、工期が長く安定した仕事を見込める基地建設や公共事業は不可欠だった。彼の言葉は、このような人生と生活の文脈に基づいて発せられたものだ。

 現在、本土の人びとの多くも、生きづらさを抱えている。自分のことで精いっぱいかもしれない。だからといって、本土と沖縄の人びとの生きづらさ比べをしてはならない。そうではなく、沖縄の過酷さが固有のものであることを前提に、理解を深めることが重要だ。自らの沖縄語りや意見表明のために沖縄の声を利用するのではなく、沖縄に生きる人びとの声を理解し、沖縄に応答することが求められている。=朝日新聞2019年6月19日掲載