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藤巻亮太の旅是好日 「人間とは何か」という途方もない問いの山に挑む哲学者たち

文・写真:藤巻亮太

 ふと旅に出ることに理由はいらない。なんとなく山に登りたくなるのにも理由はないかもしれない。先日、僕は長野県の天狗岳に登ってきた。その日は天候に恵まれてさわやかな気持ちで森の中の登山道を歩くうちに、最近読んだ本のことを思い出していた。

「あなたはだれ?」
「世界はどこからきた?」

 ソフィーというごく普通の少女のもとに、この問いが記された手紙が唐突に届いたところから物語ははじまる。その日からソフィーはそれまで考えてもみなかったことに関心をもち始めて、知ることの探究とその旅に出ていく。

 1991年、ノルウェーの高校で哲学教師をしていたヨースタイン・ゴルデルによって書かれた『ソフィーの世界』は、もともと少年少女への哲学の手ほどきを目的としたものだった。全世界で2300万部ほど売れて日本語版は95年に翻訳出版されている。僕は少年少女からすると倍くらいの年齢だが、この物語をじっくり読みそして大いに楽しむことができた。

 物語の筋書きを暴露するような野暮は慎むが少しだけさわりを書くと、ソフィーの手元にある哲学者から次々と手紙が届き、ソフィーはしっかりとそれを読み、じっくり考え、そしてときに返事を書く。手紙の中では人間が昔からどのようにものを考えてきたかをユニークに教えてくれる。

 たとえば、紀元前の相当前、神話といえば現代ではただの物語として捉える人がほとんどだろうが、当時は世界の成り立ちを認識するための大切な手段であったこと。ただ、時の経過とともに、人間は自然の移り変わりを見つめて、自然のなかに起きる原因と結果から因果関係を学び、少しずつ今日でいう科学的な考え方に発展していくこと。そして同時に、人はどのようにして生きていくべきなのかという問いに始まるソクラテス、プラトン、そして、アリストテレスなどの考え方をわかりやすく語りながら、最後は近代までたどり着く長い旅路だ。

 ソクラテスという人は本を一冊も残していない。そして、とても変わった人だったといわれる。彼は何かを知っていて、人を教え導こうとするのではなく、自分が分からないから学びたいのだとの姿勢で、誰だろうとかまわずに街中で話しかけては対話をした。当時、知力と知識に自信をもって、いわば教師として生活していた「ソフィスト」たちもソクラテスにかかると、対話をしていくうちにどんどん追い詰められて、ついには大勢の人たちの前で何もわかってないことを暴露されることになり恥をかかされた。だから多くの人から怨みを買って最後は死刑に処せられてしまう。ソクラテスの有名な言葉「無知の知」、自分は何もわかってないことだけはわかっている、一方で、何が正しいか善いことかを学び続けようとした姿勢はいまでも人々の心に響くのかもしれない。

 そのソクラテスのことを今日僕らはプラトンの作品を通して知ることができる。ソクラテスの忠実な弟子であったプラトンは年齢も相当離れていたが、その分だけソクラテスの死後も彼を主人公とする作品を多く残すことができた。彼はソクラテスの死後、とある森の中に「アカデメイア」という哲学の学校をつくった。プラトンは考えることを大転換させた人かもしれない。

 「イデア」という言葉を高校の倫理の時間に習って覚えている人も多いだろうが、プラトンはこの世の中で目を通して見ることのできる、たとえば馬、豚、人間などはどれをとっても完璧な型(フォーム)では存在していない。その完璧な型は肉眼で見られる感覚世界ではなくて、もっと遠くにあるイデア界にあって、そこではあらゆるものの永遠で不変な型が存在しているに違いないとした。こうなるとプラトンにとっての重要課題は、どうすればそのイデア界に到達するかになる。

 それからするとアリストテレスは対照的な人だ。アリストテレスはプラトンの教え子だが、プラトンの考え方にある意味では真っ向から反対した。一言でいえば常識人だったのかもしれない。プラトンのイデア説はどこがぶっ飛びすぎており、そこに至れるかどうかもよくわからない。そんなことよりも目の前の現象をもっとしっかりと観察して真実を見つけるべきだという方向に舵を切った。目の前のことを観察して分類し、系統立てて説明していくことに努めた人で、そうしたなかで論理学を作り上げた人だ。

 さて、僕は山道を歩きながらそんな哲学のことを少し思い返していた。そして哲学者たちの「人間とは何か」という途方もない問いの山にチャレンジしてきた情熱に想いを馳せた。森の中で自然に囲まれ、日常とは切り離されたからなおさらそんなことを考えたのかもしれない。目の前の登山道は一つだけど、実はもっと他の登山道だって切り開けるのかもしれない。いや隠された登山道だってあるのかもしれない。獣道だってあるし、そもそも山の数だってたくさんある。

 山頂を目指し行けるところまで行こうとした哲学者の足跡を追って、我々も人生のことを考えることができる。山頂に着いた!と興奮して語ったつかの間、瞳を上げると雲の切れ間にまだ高い山肌が見え、まだまだ低い峰の上にいると気づかされる。そんな発見の歴史が哲学なのかもしれない。

 山頂へのアプローチの仕方はいろいろで、考えることのアプローチ、哲学のそれだって同じことだ。人間が歴史のなかでどんなふうに考えアプローチしてきたかを面白く触れるきっかけとなった『ソフィーの世界』は僕にとって良い本となった。

 ところで、冒頭の問い「あなたは誰?」「世界はどこから来た?」、これに向き合うと僕はいまのところ答えは持ち合わせていないのだ。きっと僕の登山はまだ一合目付近なのかもしれない。ただ、天狗岳から下山し麓の温泉につかりながら全身で欠伸をし、問いも答えもない世界に生きているのもまた良いなと思えた。それも、悪くない。