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相沢沙呼さんが少年の頃から夢中だったTRPG「ソードワールドRPG」 ネット越しに感情移入した予測のつかない冒険譚

 あの頃、いちばん大好きだったものはなんだろう。
 最後のお題はノンジャンルということで、なにを取り上げるか少しだけ悩んでいた。
 大好きだった、という言葉は過去形だ。だから、どうしても、今は様々な理由で失ってしまったものたちのことを想起した。十代の頃に大好きだったもの。青春と共にあって、過ぎ去ってしまった時間のことを思い返した。そうなると、僕の場合、取り上げるべき題材はこれに決まっていた。
 ソードワールドRPG——。仲間たちと共に綴った、たくさんの冒険譚のことを、書きたいと思う。

「ソードワールドRPG」は、TRPGと呼ばれているアナログ・ゲーム作品の一つだ。
 TRPG――、テーブルトークRPGについて、知らない人に正確な情報を伝えるのは、ちょっと難しい。
 その名前の通り、テーブルを囲んで、みんなで会話をしながら遊ぶ、ボードゲームに近い遊びだ。
 ゲームマスターという進行役が用意した物語に沿って、参加者であるプレイヤー達は、直面した問題を解決するべく物語に取り組んでいく。必要なのはルールブックと、紙とペン、サイコロ、そして会話と想像力だ。「ソードワールドRPG」はファンタジー世界を舞台にしたルールで、プレイヤーは自分の分身である冒険者――、いわゆる何でも屋となるキャラクターを創作し、舞い込んでくる依頼を解決しなくてはならない。

 たとえば、ゲームマスターはこんなことを言う。

「あなた達は、魔物が出るという危険な森に入り込んでしまった二人の子どもを助けるため、森を探索している。一人は見つけることができたが、足をくじいてしまっているようだ。もう一人の子は、更に森の奥へと行ってしまったらしい……」

 ここで、プレイヤー達は自分が取るべき行動を考えて、自由に選択することができる。
 普通なら、見つけた子どもを背負うなりして、もう一人の姿を追うべく更に森の奥へと向かうことだろう。
 だが、森の奥は危険かもしれない。人によっては、その場で待っているように言い含めて、自分だけで先に進むかもしれないし、子どもを連れて安全なところまで引き返すかもしれない。発想は自由だ。もし、プレイヤーが二人以上いるのなら、二手に別れるのも手だろう。一人は森の奥に向かい、もう一人は子どもを連れ帰るなどできるからだ。ファンタジーだから、たちまち捻挫を治す魔法が使えるキャラクターもいるかもしれない。時には、物語を用意したゲームマスターが想定外の行動を提案されることもある。そんなふうに、参加者の想像力次第で、アドリブ的に物語が変化するのが、TRPGの魅力の一つだろう。

 僕は、少年の頃からこのゲームに夢中になっていた。
 ある時期などは、毎晩のように、想像力を武器に、冒険の世界へと飛び込んでいた。
 ただ、僕の体験は、ちょっと変わったものだった。
 TRPGは、普通はテーブルを囲んで遊ぶものだ。けれど、僕が夢中になったのは、違うスタイルだった。
 それはテーブルを囲わず、インターネット越しに仲間と遊ぶ手法だったのだ。

 この手のゲームには付きものだけれど、場所と時間を用意して、なおかつ参加者全員の都合を合わせて……、となると、遊べる機会は限られる。
 けれど、ネットを使えば話は別だ。場所なんて関係なく、都合のつく人たちを募って突発的にセッション――ゲームを開催することができる。
 会話の代わりに、どうやってゲームを進行するのかといえば、それにはもちろん、文章を使う。いわゆるチャットだ。

 僕は口下手だけれど、文章を綴ることは得意だ。
 当時でも、ネットを使ったTRPGセッションというのは珍しくなかったけれど、僕や僕の友人たちは、中でもそのやり方が一風変わっていた。
 描写を用いるのである。

 キャラクターの発言だけではなく、どのような動作でセリフを口にしたのか。あるいは、どのような心境を抱えているのかなど、一つ一つの発言に情報を盛り込んでいった。ゲームマスターをするときには、情景の描写を臨場感溢れるリアルなものにして、まるで小説を読んでいるかのような密度で情報を与えていた。みんなでやると、それはもうリアルタイムに数行ごとに交代する、リレー小説のようなものだった。

 そう、思い返すと、それは小説を書くことと、あまり変わりがない。みんなでリアルタイムで書き進めていく小説だ。
 あの頃の僕は、毎晩のように小説を書き綴っていたことになる。
 それも、自分が決して予測のできない、結末の見えない冒険譚だ。
 僕は筆者でもあり、読者だった。

 自分の生み出すキャラクターは、プレイヤーの分身だ。
 描写を交えていくつもの冒険を繰り返すと、深く感情移入していくようになり、まるで愛着のあるシリーズ小説の登場人物のようにも思えてくる。だが、想像してほしい。冒険の結果は、自分のアイデアや行動次第だ(あるいは、たいていはサイコロの出目のせいだけれど)。ときには力及ばずに、死んでしまうこともありえる。小説の中の、お気に入りのキャラクターが、自分の行動のせいで死んでしまったら……と考えると、その緊張感や冒険を成し遂げたときの達成感を、少しはわかってもらえるかもしれない。

 そのときに体験した様々な冒険で、僕はたくさんの感情を経験したように思う。
 たとえば、達成感、爽快感、あるいは憎しみ、怒り、悲しみ。そして恋……。
 キャラクターが感じる感情を、本物のように味わうことができた。日常生活で経験できないことを、多く体験できたのだ。
 それは小説を読んで登場人物に感情移入する体験に近いけれど、自分自身の行動や言葉が反映されるぶん、その感情移入の度合いはずっとずっと深かった。

 僕の綴る物語の源泉は、もしかすると、ここにもあるのかもしれない。
 毎晩のように書き綴った文章の力は、今でも小説に生かされている。そこで試された想像力や発想力も同様だ。
 なによりも、キャラクターを通して味わった強烈な心の揺れ動きは、自分の書く作品に顕著に影響されていると思う。

 残念ながら、もう何年も長いこと、オンラインでTRPGをしていない。
 夢中になっていた冒険の場は、既になくなってしまっている。
 何人かの仲間とは連絡を取り合っているけれど、今はどこでなにをしているのか、わからない人たちの方が多い。
 もう、ずっとずっと前のことだから、仕方がないことだろう。

 虚構の冒険譚に青春を捧げていたなんて、と笑う人もいるかもしれない。

 けれど、僕たちはフィクションの力を知っている。
 あのときに経験したすべての感情は、僕にとって虚構ではなく真実であり、紛れもなく今の自分を支えてくれているのだ。