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森茉莉「贅沢貧乏」 「空想と創造の歓び」に感激 文芸春秋・藤田淑子さん

 於菟(おと)、茉莉(まり)、不律(ふりつ)、杏奴(あんぬ)、類(るい)――子供たちにこんな名前を付けた明治の文豪森鷗外は外国かぶれか、それとも浪漫派(ロマンティスト)だったのか。

 長女の茉莉は若くして嫁ぎ、夫と巴里(パリ)に渡る。その1年間の欧羅巴(ヨオロッパ)生活が彼女の美意識を育んだ。戦前の二度の離婚、戦後にかけての出戻り生活を経て、世田谷のアパートでひとり暮らしを始める。その「上に『赤』の字がつく程度に貧乏」な暮らしを絢爛(けんらん)たる文章で綴(つづ)ったのが『贅沢(ぜいたく)貧乏』である。

 「十本程の薄緑の太い茎の上に、濃紅色(こいべにいろ)、黄みを帯びた薔薇(ばら)色、ミルクを入れたように甘く白い紅(べに)、檸檬(レモン)の黄、なぞのアネモオヌ」

 進駐軍払い下げ品の寝台(ベッド)には橄欖(オリイヴ)色とカナリア色のボッチチェリ風の蒲団(ふとん)が置かれ、花と硝子(ガラス)と陶器の色彩が綺麗(きれい)な夢のように部屋を彩る。彼女が憎むのは「現実」と「貧乏臭さ」。「本当に金を使ってやる贅沢には、空想と創造の歓(よろこ)びがない」と啖呵(たんか)を切る。十代の私は、素敵!と思った。

 この伝説の部屋に足を踏み入れたのが、コラムニストの中野翠さんだ。アネモオヌの花束を持参し、椅子に積まれた『鷗外全集』をどかして座り、テレビで「銭形平次」の再放送が始まるまでの間、謁見(えっけん)を許されたという。中野さんは近著『いくつになっても』に、『贅沢貧乏』との出会いを「私の人生における決定的瞬間」と書いている。

 女の人が読んで元気になる本が好きだ。彼女の本は、これから迎える「人生の放課後」(中野さん)を無邪気に愉(たの)しく生きていいよと、励ましてくれそうだ。=朝日新聞2020年3月25日掲載