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「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」 美術館を歩く足裏の感触が蘇る

『岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ』から©Kenjiro Okazaki Photo:Shu Nakagawa

 一人の作家の作品を時系列で辿(たど)ることで見えるのは、むしろ私自身の時間だ。私がこれから生きるかもしれない時間、これまで生きたかもしれない時間。そしてとめどなく流れていくはずの時間を眺める私がその時だけは「停止」している。美術館において私は私という時間から剝がれ、作品のように、時間の流れから剝がれた存在となる。

 というようなことを考えていたら、まさしくこの本の冒頭に、以下のような記載があった。「作る前からそれがずっとそこにあったようにすら感じるときがある」。作品がいつからいつまでそこにあるのかを、鑑賞者であれば尚更(なおさら)知ることができない。存在とは本当は、そんなことを「考えさせない」強さを持っている。だからその瞬間、私は自分がどれほど時間というものに鈍感であったかを思い知る。どれほど時間に無闇(むやみ)に感傷的であったかも。

 芸術を鑑賞することは、人の営みとは思えない存在感と、一方で、営みの最も本質的な部分があり得ないほど露出しているという実感に、同時に飲まれるということだ。この本はまさしくその感触を形としたものであって、私は、美術館で歩く自分の足裏の感触が蘇(よみがえ)ってくるようにも思えた。=朝日新聞2020年4月4日掲載