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仕事がしてくれること 津村記久子

  三十四歳まで十年間勤めていた会社には、営業の社員さんが移動の際に読む文庫本を共有して溜(た)めている棚があった。他の社員も持ち出して良かったので、わたしも借りて読んでいた。その中のある本の中表紙に、鉛筆で書き込みがあった。〈仕事が抱き締めてくれたことがあるのか〉。小説の一文の引用だった。

 その本を手にしたのは二十五歳ぐらいの時のことで、わからんです、としか答えようがなかったけれども、その本がすごくおもしろくて、後で自分で買い直したということもあって、わたしはその書き込みについて忘れられずにいる。それで、自分もいいかげんいい年になって仕事歴を重ね、中間的な答えのようなものは出せるようになったので、改めてその本を取り出してみてその文章を探したのだが、見つけられなかった。一頁(ページ)一頁めくって検分しても、それらしい文は見当たらない。読み直せばいいのだが、五百頁以上ある本なので、時間がない中それはできない。だから電子書籍を買って検索もしてみたのだが見つけられない。当時のわたしは確かに「これは引用だ」と思ったんだけれども……。

 二時間以上を無駄にして、結局、いつかそれらしい文を見つけられると信じてこの文を書くことにした。結論から言うと、仕事はべつに抱き締めてはくれない。ただ、生きることからずり落ちそうになったら抱き止めてくれるものではある。仕事よりも抱き締めてくれそうな家族も恋人も友人も、実は仕事を一つ一つ進めるよりは不確実なものだ。それと比べたら仕事はわかりやすいし、こなせば報酬があり、未来の自分を少し助ける。抱き締めてほしいと期待したら裏切る可能性が高いが、着手して少しずつ切り開けば自分の道はできる。だからやらないよりはやったほうがいいことだと思う。

 本の名前はジェイムズ・エルロイ著『ブラック・ダリア』だ。主人公は、仕事に損なわれながら着手した事件(仕事)を追い、最後にはある祈りに到達して小説は終わる。=朝日新聞2020年9月16日掲載