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林京子の文学 「核」の恐怖と破壊、そして希望

2002年、九州大学で被爆や文学を語り合う会が開かれ、参加者の問いかけに答える林京子さん

 林京子さんの訃報(ふほう)に接し、2006年の6月に神奈川県逗子市の自宅でインタビューした時のことを印象深く思い起こした。私が編集長をしている「表現者」というオピニオン誌で「核」の問題を特集することになり、前年に全8巻の全集を刊行した林さんにぜひ話をうかがいたかったからである。
 物静かに言葉を選び凜(りん)として語る林さんは、最後に少し微笑(ほほえ)まれるようにしてこう語った。「わたくしいつも思うの、わたくしのものを読んでくださる方は、もうすでに読まなくていい人たちなんです。でも、引っ張ってきてでも読ませたい人たちは読んでくれないんですね」と。今もこの言葉が忘れられない。林京子は、昭和20(1945)年8月9日に14歳で長崎で被爆した。爆心地から1・4キロの三菱兵器工場での勤労動員のさなかであった。瓦礫(がれき)の中から這(は)い出し奇跡的に一命をとりとめたが、被爆後遺症の不安をかかえることになった。1975年、「祭りの場」で群像新人文学賞を、同作品で第73回芥川賞を受賞する。被爆から30年の時を経て書かれた作品に、倒壊した家屋の下での一瞬間の自覚をこう書いている。
 《闇が引いて青く淡あかい光りに変(かわ)った。咲きはじめのあじさい色をしていた。熱さも冷たさもない。壁のようにはりついた死霊の光りである。あれを温度三〇〇、〇〇〇度の閃光(せんこう)というのか》

「死霊」から逃れ

 襲い来る火炎から逃れて出た外の世界の苛烈(かれつ)な描写はここに記せないが、切り取られたように置かれた最後の1行は、この作家の宿命的課題を示していた。《アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、美事(みごと)なセリフがある。――かくて破壊は終(おわ)りました――》。もちろん「破壊」は8月9日で終わりはせず、被爆者たちの地獄は体内に摂(と)り込まれた放射能によって、長い年月をかけて進行し死の崩落は続いた。『ギヤマン ビードロ』で25年余を経て被爆者の背中から出てきたガラス片が、真綿のような脂肪の固まりに包まれている描写があるが、核の恐怖と破壊は人間の身体とその人生に喰(く)い入ったまま決して離れない。

最初の被爆者

 20世紀最後の年に発表された『長い時間をかけた人間の経験』は、「祭りの場」から四半世紀に及ぶ、終着点のないこの「破壊」の魔神との戦いの鮮烈な記録である。長崎を書き続ける「長い時間」は、しかし作家にある驚くべき発見をうながす。それが同書に収められた「トリニティからトリニティへ」という作品だ。1999年、作家は人類初の原爆実験が行われたアメリカ合衆国ニューメキシコ州の「トリニティ・サイト」を訪れる。「グランド・ゼロ」と呼ばれる荒野の爆心地。軍の管轄下の放射能が残るその場所に立って、作家は地上初の「被爆者」の存在を知る。
 《……地上で最初に核の被害を受けたのは、私たち人間だと思っていた。そうではなかった。被爆者の先輩が、ここにいた。泣くことも叫ぶこともできないで、ここにいた》
 8月9日に流さなかった涙がこの時、作家の目に溢(あふ)れる。林京子は、生命を産み出す大地こそ「核」の最初の犠牲者であることを知り、長崎の経験はこの地球(宇宙)の生態論的な危機と破壊の問題となる。すなわち「核」は被造物全体の破壊者であり、「死霊の光り」に他ならないとの認識である。
 「青春」は作者の分身である女性の20代の青春と日常を描いた作品。戦後の生が昭和25(1950)年という転換期の時代に映ずる。8月9日の閃光に抗(あらが)う青春の輝きが、つまり時を生きる女性の、日常を得ることの人間の希望がここにはある朝日新聞2017年4月23日掲載