1. HOME
  2. コラム
  3. ひもとく
  4. 道徳教育を考える 非論理の押しつけ、抗う道を

道徳教育を考える 非論理の押しつけ、抗う道を

新しく加わった道徳の教科書の目次=東京・霞が関の文部科学省

非論理の押しつけ、抗(あらが)う道を

 「道徳は大事ですか」と聞かれて、否定する人はいないだろう。しかし、具体的な場面において、何が真に道徳的行動なのかと考えると、道徳とは何なのかがたちまちわからなくなる。
 例えば、「我慢が大事です」、「目上の人を尊重しましょう」と言われれば、その通りだと思わなくもない。しかし、ブラック企業に食い物にされた若者の不幸を耳にするにつけ、「我慢せずに労働者の権利を主張しましょう」、「目上の人にもおかしいことはおかしいと言いましょう」と教育する方が、より道徳的ではないだろうかと思う。現在の道徳教育は、何かを間違えているのではないか。
 そんな道徳教育の問題を明確に指摘しているのがパオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』だ。
 本書は、「戦後の民主主義的自由教育のせいで日本人の道徳心が低下・劣化した」という道徳教育推進派の紋切り型の主張が、いかに無根拠で非論理的かから説き起こし、「自分とは違う人間がよのなかに存在することを認める努力が大切です」と締める。
 この一冊を読めば、教育現場に何が必要で、何をやめるべきかは、明らかになるだろう。

個人ごとに違う

 さて、現場を離れて、「道徳とは何なのか」を知りたい人には、長尾龍一「ケルゼンにおける法と道徳」(同『ケルゼン研究Ⅲ』所収)がお勧めだ。
 本書は、法哲学の泰斗ケルゼンの法と道徳の概念を批判的に分析しながら、次のように指摘する。絶対的な一つの道徳価値が存在するとの立場は、宗教的信仰の上にしか成立し得ない。科学的認識の立場からすれば、時代により民族により道徳は異なり、一時代の一国民の中でも階級や職業によって道徳は異なる。近代的な自律の倫理の理念においては、各人が道徳的立法者であり、個人の数だけ道徳体系がある。
 なるほど。個人の数だけ道徳があるのなら、道徳教育の内容が不明確で非論理的になるのも必然だ。
 先日、郷土愛不足を指摘された道徳教科書が、パン屋を和菓子屋に変更したところ、教科書検定に合格したという報道があった。こんな不可解なことが起きるのは、算数や国語と違って、正否の判断基準がないからだ。これでは、道徳教育とは権力者にとって都合のいい道徳の押し付けになってしまう。
 また、未(いま)だに「江戸しぐさ」を扱う道徳教材があるのにも合点がいく。原田実『江戸しぐさの正体』(星海社新書・886円)が詳しく論じたように、江戸しぐさは史実に反し、論理的にもあり得ない作り話だ。しかし、「良い話なら偽史でも構わない」との道徳観念を持つ人は少なからずいる。そうした人々が、いまの道徳教育の主導権を握っているということだろう。これでは、健全な批判精神ははぐくまれない。民主制が衆愚制に堕す日も、すぐそこかもしれない。

みんなで関心を

 では、これを防ぐにはどうすれば良いのか。辻田真佐憲『文部省の研究』によれば、国民教育のベースには、常に何らかの「理想の日本人像」がある。権力者にとって都合の良い日本人像ではなく、国民を主役にした日本人像を実現するには、多くの国民がその形成に積極的に関与し、それを立憲主義や国際協調主義などと結びついた開かれたものにする必要がある。
 マッツァリーノは、道徳よりも論理学を教えよという。長尾の論文を読めば、道徳は、法との関係を射程に入れて教えるべきことも分かる。私たちが適切に関心を持ち、政治と行政を動かせば、論理学と法学で道徳教育を乗っ取ることもできるだろう。一部の狂信に教育内容を委ねてはならない朝日新聞2017年5月14日掲載