データベースを検索すると、「リベラル」は、日本の政治では1990年代から多用されてきたとわかる。「保守対革新」に代わり、「保守対リベラル」が、政治対立の基本構図を表現する言葉になった。安倍晋三『美しい国へ』(文春ウェブ文庫・788円)は、リベラルを退けて保守の立場を掲げた。国家の伝統を重視する保守に対して、リベラル(自由主義)は、個人の自由を重視する。これが、対立の基本構図である。
ところが、「リベラル」は、日本の政治に適用されると、元の語意を越えるようになった。護憲や平和主義を意味する用例は数多い。批判ばかり、机上の空論、正論の押しつけというイメージも生まれた。他方、保守の側にも「本当のリベラル」や「リベラル保守」を説く議論があり、「リベラル」はわかりにくい言葉になっている。ここでは、三つのステップで理解を整理してみよう。
ふたつの潮流
第一に、リベラルには、歴史的に大きく二つの潮流がある。
個人の自由や多様性を尊重するリベラルが当初重視したのは、「権力からの自由」だ。それは、政治権力や世間から干渉されない、個人の自由である。
みんなが自由にしたら無秩序になるのではないか。19世紀英国の思想家ミルの『自由論』は、他人に危害を加えた場合だけ自由が制限される、と共存のルールを示した。愚かに見えても、他人に危害がないなら干渉は正当化できない。この考えは経済活動に対する国家の介入を批判し、「小さな政府」を説いたアダム・スミスとも近い。
しかし放任されれば、本当に自由を享受できるだろうか。各人の自由な人生設計を実質的に可能にするため、国家の支援が必要と考えるのが、「権力による自由」の発想である。20世紀の先進諸国はこうした考えにもとづいて社会保障や福祉国家を整備した。『ロールズ 政治哲学史講義』は、代表的理論家ロールズの思想を知るためにも、リベラルの歴史を学ぶためにも有益な、平易な講義録である。
二潮流を区別するため、日本の政治学者は、それぞれを「自由主義」「リベラリズム」と書き分けてきたが、英語では同じ単語である。ややこしいことに、欧州でこの単語が示すのは前者の潮流、米国では後者である。
多様性を維持
第二に、こうした言葉のあいまいさは、政治の世界では避けがたい現象である。政治対立には、言葉の意味や定義をめぐる争いも含まれるからである。
保守主義は、18世紀の思想家バークに始まるとの説明が多い。しかし、『バーク読本』(中澤信彦・桑島秀樹編、昭和堂・3456円)が示すように、これは20世紀に創られたひとつの理解にすぎない。リベラルも同じである。「リベラル」という言葉・シンボルのあいまいさや混乱は、その理解や定義をめぐる政治的な論争や対立の結果である。「本当のリベラル」を確定しようとしても、それ自体が政治性を帯びて、問題の解決にならない。
しかし第三に、リベラルは、特定の政治勢力やその思想を意味するだけでなく、わたしたちの社会全体のルールでもある。
わたしたちの社会は、いじめ、ハラスメント、過労死に憤り、正そうとする社会だ。言い換えれば、わたしたちは個人の自由、自己決定、尊厳を最重要の価値とみなしている。リベラル(自由主義)が重視する個人の自由や多様性は、立場を超えて共有されるべき、自由民主主義社会全体の基本原則である。
では、多くの監視カメラが設置されて、個人情報が電子的に集積される現代の社会で、個人の自由はどのように維持できるか。『自由のこれから』はこうした問いに手がかりを与える=朝日新聞2017年11月12日掲載