官僚制を表す英語bureaucracyは「事務室」を意味するbureauに、「支配」「権力」を意味するcracyが結合してできている。この語が生まれたのは18世紀中ごろのフランスで、基本的に否定的な意味だった。杓子定規(しゃくしじょうぎ)で、融通がきかず、血が通っていない、という役所への悪いイメージはすでにこのときから始まっている。バルザックも『役人の生理学』で「書類作り以外になんの能力もない人間」と書いている。
この語源的な説明に違和感を持つ読者も多いかもしれない。城山三郎『官僚たちの夏』(新潮文庫・637円)に描かれているような官僚像のせいだろう。支持基盤の個別利益に配慮せざるをえない代議士に対して、上から目線で「国益」を語る高潔なエリート。この官僚イメージは高度経済成長を過ぎても長らく維持されてきた。
しかし、選挙で選ばれたわけでもない官僚が政策を決めるというのはそもそも「民主的」ではない。右肩上がりの経済成長と冷戦構造のもと、選択の余地が比較的狭かったので、「タテ割り」の弊害は顕在化しにくかった。しかしもはやそうした状況にはない。1990年代からの「政治主導」の流れは、橋本龍太郎内閣から民主党政権を経て、現在まで続いている。
即物的非人格性
もっとも、政官の力関係の変化という説明はあまりに雑である。マックス・ウェーバーは、政治家が決定し、責任を負うという「政治主導」を強く主張したが、同時に合理的な行政の理念型を描いて、政治に箍(たが)をはめてもいる。「即物的非人格性」が、彼の『官僚制』のキーワードである。行政の量の増大と質の複雑化のなかで、パーソナルな事情や恣意(しい)性を排して、客観的かつ公正に事務処理することが必要になる。ウェーバーは文書主義についても論じている。「言った」「言わない」という不毛な争いを避けるためには、文書の作成と共有が欠かせない。
有力な政治家がパーソナルな事情で形式的な基準をないがしろにすれば、平等に基づくデモクラシーの基盤が掘り崩される。佐川宣寿・前国税庁長官の証人喚問を前にして、官邸前で「官僚がんばれ」との掛け声が飛んだ。ここで求められたのはかつての官僚優位の復活ではないだろう。デモクラシーの条件である中立・公正な行政に対して「がんばれ」と言われたのである。そしてこの一線を守ることは、官僚の「名誉」の問題でもある。彼らが一生懸命に働くのは人事のため(だけ)ではなく、中立・公正な行政に「使命」を感じているからではないのか。
中立の隠れみの
もちろん、「中立・公正」は政治学的に最も注意が必要な用語の一つである。この言葉を隠れみのにして、責任逃れと利権保持がなされてきた(丸山眞男「軍国支配者の精神形態」『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫・1490円)。そして、個人を滅して粛々と仕事をすることは、政治決定にはらまれる「非合理」を隠蔽(いんぺい)し、ナチによる「行政的大量虐殺」にも結びついた(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』みすず書房・4752円)。
さらに、透明な自由競争を掲げる新自由主義は、公募、審査、自己点検・評価の書類書き(ペーパーワーク)で私たちを追い立てている。「小さな政府」どころか、かえって官僚制のルールの強化になってはいないか。『官僚制のユートピア』で文化人類学者デヴィッド・グレーバーはこう問いかける。バルザックの風刺は昔話ではない。
官僚制はデモクラシーの敵でもあり、友でもある。いつ涙を流してでも抵抗すべきなのか、いつ「がんばれ」と言うべきか。問われているのは「私たち」の眼力であり、振る舞いである=朝日新聞2018年5月12日掲載