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協調が育んだ平和 進歩の功罪 朝日新聞読書面書評から

評者: 西崎文子 / 朝⽇新聞掲載:2018年08月25日
力の追求 ヨーロッパ史1815−1914 上 (シリーズ近現代ヨーロッパ200年史) 著者:リチャード・J.エヴァンズ 出版社:白水社 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784560096307
発売⽇: 2018/05/26
サイズ: 22cm/420,1p

力の追求 ヨーロッパ史1815-1914(上・下) [著]リチャード・J・エヴァンズ

 1910年代を迎えた頃、ヨーロッパのエリートや軍人の間では、大国間の戦争は避けられないとの雰囲気が強まっていた。民族対立を引き金とする2度のバルカン戦争が、ロシアやドイツなど列強間の緊張を極度に高めていた。この雰囲気は程なく、戦争による現状打破を待ち望む気持ちへと転回する。ナポレオンがセントヘレナ島に流され、ヨーロッパに平和が回復されてからほぼ100年。著者によれば、この「戦争前夜」は、社会の様々な勢力が力を求めた末にもたらされたものだった。
 本書に登場する「力の追求」の担い手は実に多様である。フランス革命後の激動の時代、彼らは複雑な対立の構図を描きながら権力争いを続けた。自由主義者は力を増しながらも穏健派とジャコバン派とに分裂し、19世紀半ばにはマルクス主義者やアナーキストが政治闘争に加わった。フェミニストや労働組合、農奴や小作人も抑圧からの解放を求めて戦った。世紀後半には民族対立と帝国間の争いとが激化する。文化も同様だ。新古典主義はロマン主義に道を譲り、世紀末にはモダニズムが芸術界を席巻する。こうしたうねりはヨーロッパ各地に伝播した。
 ただし、大国間の対立は概して抑制的だった。それは、ウィーン会議後の政治家が、秩序の崩壊を恐れ、協調を重視したからだ。クリミア戦争の例外はあったが、イタリアやドイツの統一戦争は、大陸大に拡大することはなかった。これが、ヨーロッパ優位を確実にしたと著者は指摘する。自然災害や飢饉、伝染病に対応する能力、鉄道や電信の発達、蒸気や電気など新しい力の開発は、平和のもとでのみ可能だったからだ。
 皮肉なのは、この進歩こそが、ヨーロッパの覇権の終焉を準備したことだ。発達した科学技術は、社会ダーウィン主義に触発された人種主義的イデオロギーとともに、列強による放埒な帝国主義政策を支えた。版図拡大が威信に繋がると考える指導者は、合理的判断をよそに勢力圏争いを繰り広げていく。その過程で、ナショナリズムは自由主義と袂を分かち、民族や血統が重視されるようになる。自由主義の普遍的訴求力は掘り崩され、議会政治も、分極化するイデオロギー対立の犠牲となった。
 著者は、壮大なヨーロッパの物語をタペストリーのように紡ぎながら、庶民の姿も巧みに織り込んでいく。ドレフュス事件のように、反ユダヤ主義が法治を揺るがした出来事や、バルカン半島やアフリカ各地で繰り広げられる虐殺は、続く時代の前兆とも捉えられるが、著者は敢えて踏み込まない。奇を衒わず、骨太の叙述でこの時代を描き切った著者の力量と、翻訳者の労に敬意を表したい。
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 Richard J. Evans 英ケンブリッジ大で近代史欽定講座担任教授を務めた、ドイツ近現代史家。邦訳された著書に『歴史学の擁護』、編著の抄訳に『ヴィルヘルム時代のドイツ』など。