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平野啓一郎「ある男」書評 夫は誰なの? 霧の先に差す光

評者: 斎藤美奈子 / 朝⽇新聞掲載:2018年12月08日
ある男 著者:平野啓一郎 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163909028
発売⽇: 2018/09/28
サイズ: 20cm/354p

ある男 [著]平野啓一郎

 たとえば、あなたのパートナーが事故で急死したとする。もちろん悲しい。ショックも大きい。だけど多くの人は残された家族と故人の思い出を分かち合うことで、その死を受け入れ日常を取り戻す。それが人生ってものである。
 谷口里枝の場合はちがった。夫の大祐が事故死した1年後、彼女は遺影を前にした大祐の兄に衝撃の事実を知らされる。〈これは大祐じゃないですよ〉〈この人が、弟の名を名乗ってたんですか?〉〈全然別人ですよ、コレ〉
 ええーっ、じゃあ夫はいったい誰だったの?
 平野啓一郎『ある男』はそんな設定ではじまるミステリー仕立ての物語だ。
 といわれても頭がこんがらがるばかり。だってね、谷口大祐にはちゃんと戸籍があり、婚姻届も死亡届も受理されて、生前には健康保険証も運転免許証も持っていたのだ。彼は里枝と結婚し、里枝の連れ子である息子と二人の間に生まれた娘のよき父親で、彼が語った過去は、谷口大祐の前歴とも一致していた。
 興趣をそがない程度に答えを明かすと、彼は過去に戸籍を交換していたのである。それも二度も!
 他人の戸籍を乗っ取るといえば松本清張『砂の器』、あるいは宮部みゆき『火車』だけれども、それらとはまたちがった展開が『ある男』には用意されている。
 物語のもうひとりの主役は、里枝の依頼で「谷口大祐」の正体を調べはじめた弁護士の城戸章良。在日三世である城戸は東日本大震災後、「朝鮮人」に向けられる眼差しの変化を苦い思いでかみしめており、戸籍を交換した人物を冷たく突き放せないのである。
 エンターテインメント性を発揮しつつも、ヘイトスピーチから死刑制度まで、現代社会に巣食うさまざまな差別や社会問題を巧みに盛り込んだ意欲作。
 平野啓一郎ってちょっと難解よね、というのは昔の話。ふと霧が晴れるような読後感に救われる。
    ◇
 ひらの・けいいちろう 1975年生まれ。作家。99年に「日蝕」で芥川賞。著書に『決壊』『マチネの終わりに』など。