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「流砂」書評 転向を扱った父と子の老老小説

評者: 佐伯一麦 / 朝⽇新聞掲載:2018年12月15日
流砂 著者:黒井千次 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065133095
発売⽇: 2018/10/24
サイズ: 20cm/222p

流砂 [著]黒井千次

 86歳になる著者の8年ぶりの小説である。90代の父と70代の息子との関わりを描いた〝老老小説〟で、登場人物たちの覚束ない足取りに加え、文芸誌に6年かけて断続掲載されたこともあり、蹌踉の歩み、という印象をまず受けた。
 自伝的な長編小説とはいえ、単純な私小説の造りではなく、主人公の三人称の呼称が、関係性によって使い分けられる。例えば、父親との間では「息子」であり、妻の前では「夫」あるいは「老夫」、若者の前では「老人」、単独者としては「彼」という具合。リアリスティックでありながらアレゴリカルな味わいも併せ持つ黒井文学の特色が本作にも見て取れる。
 父親が体調を崩して入院し、同じ敷地内の隣家に暮らす主人公は、父親の書斎で「思想犯の保護を巡って」と題された厚い冊子を見つけたことがきっかけで、思想検事だった父親の過去をたどることになる。
 黒井氏にとっては、1952年に起こった血のメーデー事件に遭遇したことが文学的に大きな意味を持ち、それから20年後を『五月巡歴』で、40年後を『羽根と翼』で書いてきた。それらの作を書きながら、最高裁判事まで務めた父親を意識することもあっただろうが、表向きには触れられずにきた。それが、父親の没年に近付くようになって、初めて真正面から「父と子」のテーマに手を染めることとなり、戦前戦中の思想犯の転向問題を扱った父親と、50年代の学生運動からの転向を小説の主題としてきた自身とが重なるようになったと推察される。
 一時退院した父親が発熱して救急車で運ばれていく所で、続編がある予感を孕ませたまま本作は閉じられる。『にんじん』の作者ルナールは、〈父親というものは、二つの生命を持っている。自分の生命と息子の生命とだ〉と日記に記した。90歳で亡くなった父親の年齢に作者が到るまで、本作のテーマはライフワークとなるにちがいない。
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 くろい・せんじ 1932年生まれ。作家。日本芸術院長。『一日 夢の柵』で野間文芸賞。『カーテンコール』など。