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伊藤比呂美「道行きや」書評 老いても旅 なおみずみずしく

評者: 本田由紀 / 朝⽇新聞掲載:2020年07月11日
道行きや Hey,you bastards!I’m still here! 著者:伊藤比呂美 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784104324033
発売⽇: 2020/04/24
サイズ: 20cm/221p

道行きや [著]伊藤比呂美

 著者が30年以上前の本で唱えた「がさつ、ぐうたら、ずぼら」な育児の勧めは、現在にいたるまで、数知れぬ母親たちを救ってきた。実は私も、それをきっかけに著者のエッセイを読み続けてきた者のひとりである。私よりひとまわりほど年上の著者は、いつも私自身がこれから経験するであろう人生の諸々――たとえば子どもの巣立ち、たとえば家族の看取りと自らの老い――を、先回りして詳細に示してくれる存在であった。
 本書では、アメリカから日本に生活拠点を移したのちの著者の日常が描かれる。初めて授業をもつことになった大学での学生との関係、熊本の自宅にほど近い里山の風景、アメリカで日本人として暮らしていた時期の回顧、かつて住んだポーランドへの再訪などが、主なモチーフである。
 筆致は著者らしく、淡々としつつ諧謔(かいぎゃく)を含む。出会う人々や物事のいちいちに対する著者の観察や受け止め方のみずみずしさが印象に残る。熊本で犬の散歩中に行き交う人々は、「顔の薄皮をぴっとひん剥(む)いたくらいの声の出し方」で、朝は「ざっ」、夕方は「わ」と挨拶する。羽田からのモノレールの先頭車両で目にした東京の街に「魂を呑(の)まれるような経験」をする。大学の授業のリアクションペーパーでは、女子に広がる「蛙化(かえるか)現象」(憧れていた男子に告白された途端に気持ち悪く感じること)を知る。米国人の夫との間に米国で子どもを産んだ日本女性が離婚に際して直面する法的・経済的な不利に憤る。
 特に惹かれるのは、熊本での川、森、植物、空、鳥、著者が伴う犬の描写だ。とめどなく空から降る燕(つばめ)、山に押し出されるように上る大きい赤い下弦の月。
 著者は書名に「旅」を意味する言葉を選んだ。ずっと旅なのだ、歳をとっても。誰もが、常に新しいことに驚かされ、わからない明日に向かってつんのめっている。表紙の「(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ」という言葉のように。
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いとう・ひろみ 1955年生まれ。詩人。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』『良いおっぱい 悪いおっぱい〔完全版〕』など。