1. HOME
  2. コラム
  3. 中条省平のマンガ時評
  4. 吉田秋生「詩歌川百景」 「海街」の次は温泉町、分厚い群像劇

吉田秋生「詩歌川百景」 「海街」の次は温泉町、分厚い群像劇

 吉田秋生(あきみ)の『海街diary』が12年かけて完結したことは、2018年の日本マンガの最高の出来事でした。あれから1年で新作『詩歌川(うたがわ)百景』が始まり、ついに待望の第1巻が出ました。なんとも素晴らしい作品です。

 主人公は、『海街~』のヒロイン・すずの義理の弟である飯田和樹。『海街~』の最終巻に収録された番外編「通り雨のあとに」に登場していた若者で、『海街diary』全巻のあの印象的な終章は、この『詩歌川百景』の序章でもあったのです。なんとも巧みな物語構成です。いやがうえにも期待は高まり、その期待は決して裏切られません。

 『海街~』が、タイトルどおり鎌倉という海にむかって開かれた町で展開する物語なのに対して、『詩歌川百景』は、山形県の奥の、山と川に面する河鹿沢温泉が舞台です。山はそこで修行して死んだ人々の魂が宿る場所であり、川はその死者の世界と生者の土地とを隔てる結界です。つまり、このマンガの舞台には、日本的な神秘の感覚が濃い影を落としているのです。『海街~』とはまったく対照的な、森閑とした舞台設定の妙にぞくぞくさせられます。

 第1巻だけで『海街~』に劣らぬ数十人もの人物が登場し、確かな個性に彩られています。そして、ユーモアもたっぷりに、狭い温泉町での、温かい人情に冷たい悪意も忍び寄る、分厚い群像劇を織りなします。吉田秋生の物語作りのあまりの緻密さに、ひとコマも軽く読み流すことはできません。

 主人公の和樹は、旅館「あづまや」の従業員として温泉を支える仕事をまじめにこなしています。しかし、死んだ実父の暴力行為の記憶を抱えて、ときどき音もなく色もないモノクロームの世界に呑(の)みこまれてしまいます。

 和樹がつねに意識している存在が、子供時代から知っていて、いまは一緒に「あづまや」で働く高校3年の美少女・小川妙です。妙は「あづまや」の大女将の孫で、大学進学を断念して働くことを決意しています。勝気で有能ですが、謎めいたところのある娘で、その心の底に秘められているはずの事件はまだ示唆されるだけなのです。

 山で息子を亡くしてから10年間、この山と温泉に通いつづけた人物との出会いなどを経験しながら、和樹は大雪のなかで成人として初の正月を迎え、モノクロームだと思っていた世界に豊かな色と音が満ちていたことに気づきます。この1冊だけで感動的ですが、物語はまだほんのとば口です。今後どんなドラマが重層的に紡ぎだされるのか、目がはなせません。=朝日新聞2020年12月9日掲載