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「カズオ・イシグロと日本」他1冊 二つの母語持つ「孤児」への道標 朝日新聞書評から

評者: 温又柔 / 朝⽇新聞掲載:2021年01月09日
カズオ・イシグロと日本 幽霊から戦争責任まで (水声文庫) 著者:田尻 芳樹 出版社:水声社 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784801005082
発売⽇: 2020/10/26
サイズ: 20cm/317p

カズオ・イシグロ失われたものへの再訪 記憶・トラウマ・ノスタルジア 著者:ヴォイチェフ・ドゥロンク 出版社:水声社 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784801005099
発売⽇: 2020/10/26
サイズ: 20cm/354p

カズオ・イシグロと日本 幽霊から戦争責任まで [編]田尻芳樹、秦邦生/カズオ・イシグロ 失われたものへの再訪 記憶・トラウマ・ノスタルジア [著]ヴォイチェフ・ドゥロンク

 二〇一七年ノーベル文学賞授賞式後の晩餐(ばんさん)会で「ノーベルショウ。その名を私は日本語で初めて耳にした」とイシグロは述べている。「母は私に語りました。ノーベルショウはヘイワを広めるためにつくられたものなのよ」
 日本語は「スコシダケ」しかできず、「英語を使っているときの方が居心地が良い」と感じていると語る作家が日本で暮らした期間は短い。それでも彼の出身国たる日本では文学愛好者に留まらず「カズオ・イシグロ」のノーベル文学賞受賞の報を「我が事」のように祝福する者が多かった。
 しかしこの日本で以上にむしろ幼少期から育った英国でこそイシグロは、「日本との関係という問題に付きまとわれてきた」。英国のメディアに流通する日本のイメージと自身の「強固な連想」を「払拭(ふっしょく)」するべく、『遠い山なみの光』と『浮世の画家』という「生まれ故郷の日本を舞台とした小説で新進作家としての地歩を固めつつも、そこに安住せず作家としての可能性をさらに伸ばす」ほうを選んでイシグロは、英国では言うまでもなく世界に愛読者を持つ作家となった。
 『カズオ・イシグロと日本』は、「イシグロと日本」というテーマを再検討する十本の論文(そのうちの三本は英語からの翻訳)を収録する。「既成の『日本らしさ』の再生産を見出(みいだ)し、それを言祝(ことほ)ぐような振る舞い」からは遠く離れた地点で、「事実の断片と記憶や推測、そして想像力から生み出されたもの」としてのイシグロにとっての「日本」を検証し、「イシグロに潜在し、イシグロを包みこむ」「決して自明ではない、不透明な『日本』――を多角的に復元する」本書の試みは、「日本」とはその実、日本国内や日本語に安住する私たち一人ひとりにとっても多面的であるのだと逆に教えてくれる。
 とりわけ、『わたしたちが孤児だったころ』を軸に、「故郷」(場所としての日本)と「母語」(言語としての日本語)に対して「親しみ」と「よそよそしさ(違和感)」を同時に抱くイシグロの「アンビヴァレンス」を丹念にひもとく三村尚央論文は、カズオ・イシグロという作家やその作品の豊かな奥行きを示すのみならず、「国」と「国」の間で少なくとも「二つの母語」を持たされ、そのために「複数言語間」でアイデンティティーを形成しなければならない、世界に散らばる現代の「孤児」たちにとっては、在り方をめぐる道標にもなり得るだろう。
 その三村氏の翻訳によるヴォイチェフ・ドゥロンク『カズオ・イシグロ 失われたものへの再訪』が本書と同時期に刊行されたことも頼もしい。
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 たじり・よしき 1964年生まれ。東京大教授(英文学)▽しん・くにお 1976年生まれ。東京大准教授(英文学)▽Wojciech Drag 1984年、ポーランド生まれ。ヴロツワフ大准教授(英文学)