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「福澤諭吉の思想的格闘」書評 甦る試行錯誤 深い共感を添え

評者: 戸邉秀明 / 朝⽇新聞掲載:2021年02月20日
福澤諭吉の思想的格闘 生と死を超えて 著者:松沢弘陽 出版社:岩波書店 ジャンル:伝記

ISBN: 9784000614351
発売⽇: 2020/11/16
サイズ: 22cm/419,9p

福澤諭吉の思想的格闘 生と死を超えて [著]松沢弘陽

 青年福澤諭吉は幕府使節団の随員としてロンドンに滞在中、一編の文書に衝撃を受ける。自国の外交官が日本で起こした非道を糾弾する建言書。それを議会に提出したと、英国の市民団体が知らせてきたのだ。
 『福翁自伝』でわずかに知られるこの挿話も、著者の考証にかかると、文明の普遍性にふれた生涯の重要な瞬間となって浮かびあがる。公論を担う自発的結社が「自国民中心意識の拘束を越えて」国家を批判できる。ここに福澤は万国公法の意義を確信し、開国論へ踏み切る決心をした。
 では文明国にふさわしい「一身独立」する個人をいかに生みだすか。演説や討論の「稽古」など、民主主義や人権の大前提となる習慣や意識が、福澤によって日本で「始造」された。
 本書は、その意義を検証してきた著者の半世紀にわたる福澤研究を集成する。『文明論之概略』や『福翁自伝』の校注を果たした著者の史料批判が、西欧の思想と日本の現実の間で苦闘する啓蒙(けいもう)思想家の試行錯誤を精細に甦(よみがえ)らせる。
 現実政治とわたりあう以上、論説は修正や妥協を免れず、今日まで福澤の変節や転向を批判する声は絶えない。だが著者は、成功譚と映る福澤の自伝にも安穏ならざる闘う晩年を読みとる。冒頭の建言書の挿話も、日清戦後の排外主義への危機感から「自尊尊他」の基準として改めて思い出された。時代と格闘の末、一身の生死を超えて「後世」へ文明の進歩を託す福澤に、著者は深い共感を表す。その晩年とも響き合い、解釈は奥行きを増していく。
 著者の師、丸山眞男が思想史研究に込めた意志を論じて本書は結ばれる。丸山は、福澤のように普遍的価値を内面化することで、外的権威からの「独立」を堅持した例外的な思想家に可能性を見た。思想を当時の文脈に正確に位置づけながら、同時に「方法」として汲み出し、変革の糧とすること。この視角は本書でも確実に受け継がれている。
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まつざわ・ひろあき 1930年生まれ。北海道大名誉教授(日本政治思想史)。『近代日本の形成と西洋経験』など。